「君たちはどう生きるか」:「世界を救う(ことが期待される)」のは元気な女の子でも無垢な幼児でもボーイミーツガールの愛でもなく「無垢でないことを自覚した<少年>である」というある意味アンチ現代の「古典的」作品
7月19日(水)晴れ時々曇り
昨日は母を病院に連れていき、眼科で検診を受けた。とりあえず悪化の兆候はないということで一安心。母を施設に送り届けてから家に帰って朝あまり読めなかったらスピリッツなどじっくり読んだり。
「君たちはどう生きるか」の感想、書き始めたらいろいろ出てくるしただそんなにすごく強い熱量があるわけでもないのでなかなかこれをどうやってまとめたらいいものだろうという感じはする。初動の4日間は「鬼滅の刃 無限列車編」まで興行収入不動の一位を守り続けた「千と千尋の神隠し」の初動を超えた20億円を超える興収だったということで、まずはめでたいというところだろう。
ぼちぼちいろいろな感想・批評も出てきていて、とりあえず今のところ一番耳目を集めていると思われるのはこちらかなと思った。
こちらの方でなるほどと思ったのは、宮崎作品に出てくる「頼れる先輩のお姉さん」、今回でいえば女中=船乗りの桐子=キリコは亡くなられた高畑勲さんなんだ、という解釈で、それは考えたことはなかったのでまあそういう解釈もありだよなあとは思った。
そういうふうに登場人物を誰か(実在人物)のメタファーと考えるのは一つの解釈の仕方ではあるのだが、それだけに囚われてしまうと見え方を規定してしまうので必ずしもどうかと思うところはある。ただ、あの疲れ切ったペリカンだけは昨日も書いたがあの人なんじゃないかな、という気がする人はいた。
全般的には概ね好評だとは思うが、賛否の分かれる作品だなと思った通り、不満な人は何に不満なのか、みたいな分析もいろいろ流れてきていて、この辺も面白いと思うのだけど、いろいろな意味で宮崎作品の中では特異な位置を占めることになるのではないかという気はする。
「この作品を不満に感じる人がいるのは宮崎作品の定番の「ボーミーツガール的」な要素がなく、あっても「生まれる前の自分の母親」だったりしたからでは」という分析があり、しかし宮崎作品で常にそういうのが押し出されているかというとそんなことはなくて、例えば「風の谷のナウシカ」にしても「となりのトトロ」にしてもそういう要素はすごく少ない。
「不満」ということがあるとしたら、今回の作品は「元気な(あるいは健気な)女の子」が主人公でない、ということではないかと思った。
そうやって考えてみると、宮崎作品で「少年」が主人公であることはすごく少ない、ということに改めて気づいた。スタジオジブリが作られて最初の作品である「天空の城ラピュタ」は少年が主人公のボーイミーツガール作品で「世界の崩壊と再生」を描いた作品なわけだけど、ラピュタに比べると今回は少年が主人公で「世界の崩壊と再生」を描いているわけだけど、「絵に描いたような」ボーイミーツガールは「ない」。真人はヒミに「こっちの世界においでよ」というけれども、「あなたのお母さんになるのがワクワクする」と言って違う出口から違う世界に出ていく。この辺のところが引っかかっていてこれが一体何を言いたいのかと思っているのだけど、とにかく普通のボーイミーツガールではない。ただ、建物の造形などを含めて、ラピュタを思わせる部分はとても多かった。
次に少年を主人公にした宮崎作品は「もののけ姫」なのだが、これも世界の崩壊と再生を描き、また特殊な形ではあるが明確なボーイミーツガールでもあった。「もののけ姫」は「売れ線を狙ってないのに大ヒットした」という意味で「宮崎駿ワールドを確立した」と言える作品だと思うのだけど、世界観的にもコダマとワラワラの相似性とかも含めてこの作品もとても共通するものがあった。この世界のアシタカは追放されるわけだけど、真人は「いじめ」を受けて自分で自分を傷つける。そして自らの「悪意」を自覚していき、しかしその上で世界を生きることを選択していくという話に今回はなっている。そういう意味でこの作品には「自分のやったことに対する当事者性」が強く出されていて、世界のさまざまなありように自らの善意を持って立ち向かっていくという今までの宮崎作品とは少し違う。
少年以外の男性主人公の作品を見ていくと、「紅の豚」は「人間を辞めてしまった」中年パイロットでこれは宮崎自身が主人公の形象になっているというこれはこれで特異な作品、というのもあるが、これは村上春樹ではないがデタッチメントとアタッチメントみたいなテーマをむしろ感じた。
また実は近作の三本は「ポニョ」「風立ちぬ」「君生き」と続けて男性主人公で、この辺も女性主人公が王道と感じられる宮崎作品においては特異な傾向なのだが、ポニョは「無垢な幼児性が世界の多様性とともに生きていく」という「無垢性への希望」みたいなものが感じられたのに対し、「風立ちぬ」は「美を追求することで世界の悲惨に加担した」というある種の懺悔ともまたそれへの赦しとも取れる作品で、そういう面で賛否両論を呼んだ。しかし知らなかったがこの作品は興行収入120億円でジブリ史上5位だそうで、なんのかんの言っても見られた作品なのだなと思った。
だからこの回の「君たちはどう生きるか」は「人間であることも捨てず」「無垢ではなく(自分の悪意を自覚している)」「幻想へも逃げず」「「みんな」とともにこの世界を生きる」というストレートな世界への向き合い方を表明している点で「君たちはどう生きるか」ということなのだよなと思う。
また、宮崎映画の大人の男主人公たちがどちらかというとストレートには生きられない世界の複雑さを体現せざるのを得ないのに対し、「君たちはどう生きるか」は「少年だからこそ世界の崩壊と再生に立ち会える」みたいな「少年=無限のもの」というテーゼが感じられて、そして「ラピュタ」の初々しいボーイミーツガール性まで捨象して、悪意で作られた世界をもっと明る世界に変えていきたいという希望を述べた、ある意味とてもストイックな作品なのだなと思う。
つまり、世界を変えられるのは世を拗ねた大人の男でもなく、元気で健気な女の子たちでもなく、無垢な幼児でもなく、ボーイミーツガール的な愛でもなく、「自らが無垢ではないことを自覚し、皆とともに生きることを選択した<少年>」なのだ、ということなんだろう。そしてこの<少年>として生きてほしいというのがメッセージなのではないかと思うのだが、これはある意味現代的なテーゼへのアンチな部分もある、つまりとてもいい意味でも「悪い」意味でも「古典的な」作品であるように思った。
それが観衆にどう受け取られるかはまた別の問題ではあるのだけど、この映画は考えれば考えるほどいろいろ出てくるので、また考えたことを書いてみたい。
「推しの子」の主題歌「アイドル」の3部構成の話、平安時代の気候変動の話など書きたいことがまだいろいろあるのだが、また明日以降に順送りしておきたいと思う。「君たちはどう生きるか」について書いているうちに「君たちはどう書くのか」みたいな感じになってきて、その意味ですごく自分の中を活性化させてもらっていることは、とてもありがたい映画だなと改めて思っている。
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