フランス革命を先鋭化させた「議論」と終息させた「国民投票」/「ぼくのヒーローアカデミア」最終回:正義と悪との戦いに留まらない「余計なお世話」の物語

8月5日(月)晴れ

昨日は車で帰京。出かけるのが11時ごろになったが、だいたい順調に来たものの、夏休みだからか車の量はかなり多かった。小仏トンネルの手前、まだ山梨県のうちに混雑が始まっていて、右車線か左車線か迷うことが多かった。私は八ヶ岳・境川・石川の3回休憩を取るのが定着しているのだけど、八ヶ岳でトイレからだいぶ遠いところしか駐車できなかったので後は大変かなと思ったのだが、境側も石川も思ったより混んでなくて助かった。首都高に入ってからも少し渋滞はあったが、だいたいすんなり通り過ぎた。2時40分ごろに着いたから3時間40分、まあそんなものかとは思う。


最近いくつかやろうと思うことはあるのだけど、ブログに関してはちょうどパリ五輪をやっていることもあり、こういう時でなければフランス革命関係のものも読んでもらえないよなと思いながら、自分が修論を書いた時に買い集めた本などをもう一度読み返してみようかなと思う。微妙に範囲が違うので読んでなかった本もあり、その中の一冊ベアトリス・ディディエ「フランス革命の文学」(白水社文庫クセジュ、1991)などをしばらく読んでみようかなと思った。あとは、自分がフランス革命研究を始めるきっかけになったフランソワ・フュレ「フランス革命を考える」(岩波書店、1989)、古書店で見つけて5000円くらいしたのだが傍線を引ききってよく読んだジョルジュ・ルフェーブル「1789ーフランス革命序説」の、読み切ったとたんに文庫が出た文庫の方(岩波文庫、1998)。

ルフェーブルはソブールの「フランス革命(上下)」(岩波新書、1980)と並んでフランス革命200年を機に研究が盛んになったフランス革命の見直し(いわゆる修正主義)の前の、マルクス主義の公式的歴史観が現れたものと言っていいのだが、8月4日の「魔術」について書いているところが印象に残っている。つまり、国民議会における憲法制定過程の中で「人権宣言」を発し、人権について啓蒙し原則をつくるべきだが、それでは現に暴威を振るっている農民の氾濫はおさまらない、だからまず目に見える形で「封建的特権の廃止」を宣言すべきだ、という形で議論が進み、二つの提案がなされたが、より過激な方が圧倒的な支持を得て本当に廃止されてしまったわけである。これによって農民反乱は急速に収まり、農民たちが国民議会を支持していることが明確になって、王権側に譲歩を強く迫ることが可能になったわけである。

「フランス革命の文学」はどちらかというとメインとは言えないが、この時代(1789-99)における文学を詩や演劇、小説というように狭くは捕えず、人民たちから三部会に対して出された請願書(カイエ)や、行われた演説なども文学として含んで考えようという視点で、これは面白いなと思った。現代ならさしずめ、ネットの言論まで含めて文学と考えよう、という姿勢だろうと思う。これはこれで面白いだろうなと思う。

「フランス革命を考える」はまさに革命史研究に一石を投じた問題の書で、フランスでも賛否両論あったが、要はフランス革命を「ブルジョア革命という物語」でとらえるのではなく、歴史的な事象として検証して行こうという方向性にあったと言えるだろう。フランス革命はフランス共和国の「起源の物語」でもあるから、そこにメスを入れることはひいては共和国の正統性そのものに危害が加えられる可能性があるわけだけど、そのこと自体は受け入れられ、正義としての革命の物語は相対化されるようになり、そこでフランス革命の暗黒面の研究もまたより実証的に行われるようになったと言えるだろう。

いま久しぶりに読み返して思ったのは、議会における議論による議論の先鋭化によって最終的にはロベスピエールの恐怖政治がもたらされ、テルミドールの反動ののちも議論による先鋭化の危険というのは常に去らなかった。このあたりは、1960年代の学生運動が内部の議論が先鋭化するうちに内ゲバに発展し、またあるいは総括と称して仲間を粛清していく展開になったことに結局は重なるのだろうと思う。

その解決は結局ナポレオンによる軍事的な勝利と、そして政府自体を軍事的に制圧するとともに、最終的に「国民投票によって皇帝に即位」するという原理矛盾をやってのけたことにあった。

簡単に言えば、「議論によって先鋭化したフランス革命を、国民投票によって終わらせた」のである。

投票は、いつでもこのような「妥当な(ナポレオン帝政が妥当であったかは難しいだろうが)」結果を招くわけではない。たとえば1973年1月に国民公会で行われた「投票」は、「国王ルイ16世の処刑」を決定している。この時処刑に賛成した議員たちは、ナポレオン没落後のルイ18世の王政復古時代に厳しく追及され、処刑されたものも多い。

このことは、たとえばフェミニズム的な権力に抵抗しようとした人や議論に対し「オープンレター」を送って糾弾するというやり方に似ている。現在ではむしろオープンレターに署名した人々が、ネットで話題になると検索され、「オープンレター派である」とレッテルを張られていることによく似ている。

また、そういう議会という狭い世界ではなく、広く世論をあたってみれば、当時のオープンレター派に賛同する人はごく少数であっただろうと思うし、「国民投票」というものはそういう事実を明らかにする手段であると言える。

逆に言えば「国民投票」というのは議論を無効化する手段でもあるわけで、それによってその存在意義を問われる議員や学者という人の中には、国民投票を嫌う人たちが多い。ただ、最終的に議論の行方に決着をつける手段としてヨーロッパで国民投票がよくおこなわれるのは、そうした先鋭化に歯止めをかける明確な手段として認識されているということはあるだろう。

日本では本当の意味での国民投票はまだ行われたことがなく、憲法改正のための国民投票もまだ法整備が終わってないわけだが、野党の護憲派の人たちが国民投票を嫌うのは、ただ単に憲法を守ろうとすることとはまた違う意味があるのだろうと思う。

というようなことは簡単に済ませるつもりだったのだが、思ったより話が長くなった。


今日8月5日発売の少年ジャンプ36・37合併号で2014年に始まった「僕のヒーローアカデミア」が最終回を迎えた。いかにもジャンプらしいさわやかな王道ヒーローもので最後まで駆け抜けた感じがする。

最後まで読んで思ったのは、「ヒロアカ」は悪、ヴィランたちの深い事情にも思いを寄せているということ。特にお茶子はトガヒミコの、デクは敵の首魁、オールフォーワンの後継者である死柄木弔に対して、「どうにかして救ってあげられないか」という思いを強く持ち続けた。結局それは叶わぬことで終わるわけだけど、どうにかできなかったのかという悔いが最後まで残り、その一掬の涙がこのヒロアカという物語に「正義の物語」に留まらない「優しさ」を添えているのだと思う。

このあたりは、悪の首魁である鬼舞辻無残に全く同情なく斬り捨てた「鬼滅の刃」、「純粋な怒り」で悪を滅したこの物語との対比を感じさせるものがある。というかむしろ「ヒロアカ」の方が古い物語であり、こうした悪を悪としか見ない、悪にも同情すべきところがあった、というようにはみなさないある種の潔さ、一神教的な潔さが「鬼滅の刃」の新しさであったともいえる。もちろん個々の鬼には同情すべきところも少なくとも読者には提示されるし、何よりも妹の禰豆子が鬼にされているために鬼を理解しようという気持ちを主人公の炭治郎は持っているのだが、ラスボスの無残にはそういうところを存在させないところが、この作品の特徴であるように思われる。

ただ、「ヒロアカ」においても本当のラスボスであるオールフォーワンには情けはないのだが、それより後に死柄木との戦いを置くことによって、単なる悪の討滅の物語にならないようにしているように思われる。ヒーローの目的は敵を倒すことよりも「困っている人を助けること」、「救いを求めている人に救いの手を差し伸べること」、だからどんなに大変な場面でも「私が来た!」ということで人々に安心感を与えるヒーローになることが目的であるからで、鬼を倒すことが目的の鬼滅隊とは構造自体が違う、ということはあるわけである。オールマイトが言うように、「余計なお世話ってのはヒーローの本質でもある」のである。

同じ時期に連載されていた他の作品で言えば、「約束のネバーランド」もまた鬼と言われる種族によって子供達が食べられるということを知り、「食肉用の人間を育てる」孤児院を脱出して人間の世界に至る。その中で鬼の一族の中にも味方をつくったりして、最終的には「鬼の世界」と「人間の世界」をゾーニングすることで、子どもたちは幸せに生きられるようになる。つまり、この話は「子どもたちが危地を脱して生き延びる」ことがテーマの物語であるから、戦わずに済むなら戦わない方がいいわけである。

もっと例を挙げれば、「進撃の巨人」がある。この話は、悪と戦う話ではなく、人間にとって到底理解不可能な、まるで災害のような「巨人」と闘う話である。そして戦い続けるうちに人間の支配者という「悪」とも向き合うことになり、それを倒してさらに謎に迫ると、壁の中に閉じ込められて知らないでいた世界は自分たちに敵対的で、それに対してどう対していくのかという問題になり、主人公は「自分たちを守るために世界を滅ぼす」という選択を取る。つまり、主人公自体が「悪」になるという展開なわけである。

最終的には世界の8割を滅ぼしたところで主人公はかつての仲間に倒され、世界は正常化するのだが、それでも人と人との戦いは止むことがない、ということが暗示される。世界は善と悪との戦いというよりは敵と味方の闘いであり、それもまた一筋縄でいくものではない、という作者の世界観が示される。

そういうものたちに比べれば、ヒロアカは大変シンプルな話で、基本的には正義は正義だし、悪は悪になった理由はあるにしろ悪であって、そこに注がれる涙はいつまでもそれに囚われているようなものではない。そのことに作者の若干のためらいを感じるのもまた、作者の優しさであるような感じもして、この物語の叙情性を支えているように思う。

ヒロアカはたまたま連載第1回のジャンプを今でも保存してあるので、これで第1話と最終話の両方の連載誌を持っていることになり、いろいろと思うこともある。

この先作者の堀越耕平さんがどのような物語をつくっていくのかはわからないけれども、またすばらしい作品を期待したい。

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