阿部正弘の「開国の決断」に対する頼山陽の影響:「天下の大勢の政治思想史」を読んでいる

10月23日(日)霧

今朝は霧が深い。4時過ぎに車で出た時に、霧が出ているなとは思ったが、明るくなってみるとかなり深くて、気温はそんなに低くない(6時30分で8.5度)のでかなり空気中の水分濃度が高いということなのだろうと思う。

今週、というか先週は色々と忙しくて落ち着かない感じだったのだが、自分というものが少し見えたところがあったので、そのあたりは収穫と言うべきなのかなと思う。

昨日は「天下の大勢の政治思想史」を読んでいた。第3章「阿部正弘の「発明」」まで読んだ。阿部正弘はペリー来航と日米和親条約が締結された時の老中筆頭だが、水野忠邦に代わって政権を掌握した新進気鋭の老中であったことはみなもと太郎「風雲児たち」では肯定的に描かれている。しかし従来阿部は「優柔不断で腰が座っていない」と評価されることが多かった。それは子母澤寛「勝海舟」などが代表的だが、腰抜けの代表のように描かれている。

実際、阿部がやったことを見ていると(上記の阿部の評伝は読んだことがある)難しい状況の中で困難な舵取りを行なったと思うし、その心労のあまり若くして亡くなってしまって惜しい人を亡くしたと言う感じなのだが、どうしてそのような評価になったのか疑問に思っていた。

この本を読んでなるほどと思ったのは、阿部の家来である頼山陽門下の関藤松蔭=石川君達が水戸藩主徳川斉昭と阿部との間の周旋を行なっていたのだが、そこに出てくる人々の阿部に対する評価が「臆病の執政」「姑息の徒」と評されていたり、関藤自身が自分の主君を「踏ん張りが足りない」とか「決断力に欠ける」などと評価しているので、そう言うところから阿部のマイナス評価が来ているのだなと思った。水戸藩はもちろん攘夷論の「理」に偏るところがあるわけだし、頼山陽門下の人々は世界の「勢」を知ればいてもたってもいられなくなるようなところがあるのだろうと思う。斉昭が海防に対する献策を繰り返すのにそれになかなか阿部が反応しないことを歯痒く思っていた、と言うことなのだろう。

なるほどと思ったのは、阿部はもともと鎖国論者であったのが、オランダからの国書や入ってくるさまざまな世界の情「勢」を聞いて、鎖国の不可能を悟り、開国に舵を切った、と言うのは今まで阿部個人がそう言う資質を持っていたから、と言うことだと思っていたけれども、山陽門下の家来がいて進講させ、「勢」の重要性を認識するようになっていたから「祖法」や「理」よりも「情勢に鑑みて」「開国を決意した」と言う話になるのはこれは重要だと思った。

と言うか私たち現代日本人にとって、「理」も重要だが「世界の大勢」を鑑みつつ国の進むべき方向を考えるなどと言うのは当然のことと思われるけれども、朱子学の支配する理の世界の住人にとっては恐らくは唾棄すべき堕落した考え方のように思われたのだろうと思う。

我々は後代から見て、戦国の武将たちが徐々に秀吉に従い、また家康に従ったのも「天下の形勢」を見たからだろうと思うのだけど、それはいわば軍事的な側面から「勝てないものには従うしかない」と判断したに過ぎない、と言うのと頼山陽の言うように軍事だけでなく天下の形勢を見つつ国家の存立を賭けて判断・決断すると言うのとは原理的に違うのではないか、と言うところは注目すべきところなのかなと思った。

だから阿部正弘の一部の尊攘派から見れば「踏ん張りが足りない」判断は、頼山陽門下を家来にしていたことのある意味必然的な帰結であったと言うことになるわけで、阿部が新しい一歩を踏み出したのに頼山陽が影響していると言うのは今まで考えたことがなかったので、なるほどなあと思ったのだった。

付け足しになるが、日本の統計学の祖と言われる杉享二が、阿部の家来の福山藩士であると言うことも初めて知った。杉と言う人物についてはやはり先に書いた子母澤寛の「勝海舟」に勝の弟子として出てきて、「統計学は面白いかい」と聞かれて「面白い、実に面白い」と答えたら勝が「俺は面白いからと学問をやったことなど一度もないねえ」と答えて、杉がハッとした、みたいな記述を読んだことがある。

まあまだふわふわしていた杉に勝が喝を入れた、みたいなエピソードなのだけど、学問は必要だからやるのか面白いからやるのか、みたいなテーマにもつながって、面白いなとは思った。杉も阿部のような主君がいたからその道に進むことができたのだろうし、幕末の人間模様もまた面白いなと思ったのだった。

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