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「新しい日常」はみんなの手によってすでにつくり出されている

 新型コロナウイルスによって僕らの日常生活は一変した。
 連日ニュースで流れる日本各地、および世界各地の状況。ああ、大変なことが起きているんだなと思いつつも何か大きな変化が目の前に現れるわけでもない。しかし、少しずついままで見てきた日常は、見たことのない日常へと変化してきている。

 変化なんてもんはいつも起きているものだけど、気づいたときには突然起きたように感じるもので。

 コロナの話題が飛び交うようになった2月ごろなんて多くの人がいまのような生活をしているなんて思っていなかっただろうし、世界規模でみんな一律平等に脅威が襲ってくるなんて経験は、ほとんどの人がしたことないでしょう。どの国も緊急事態が発令されて、外出制限あるいは自粛、経済活動のストップ、人と人との距離感、衛生観念の啓発……云々。

 いままでなかった出来事が「制約」としてやってきて、またそのように感じられ、窮屈さを感じてきた人も多いのでは。かくいう僕だって、こんな人と会わず・近づかず・どこにも行けず・ひきこもることの多い日々は苦痛以外の何ものでもない(ちなみに20代前半でリアルひきこもりをしていたので、初めての経験かと言われると微妙だなあ)。
 しかし、そういう生活が1ヶ月も続いてくると苦しみを味わうというより、徐々に「飽き」がくるのを感じる。なんだかんだ新しい生活に適応してきて、この制限された生活の範囲でもできることや興味のあることを探そうと思えてくるものだ。

 コロナウイルスとともにある生活は今後2、3年続くとも言われ、お隣の韓国では政府による「ソーシャル・ディスタンスに関する指針」が発表された。日本でも似たような指針の下での生活が余儀なくされるはず。

 うわあ、窮屈な状態がまだまだ続くのかなあと思いつつも、意外とそれほど深刻に捉えていない自分もいる。この状況に対応できるようにならなければ! この状況をいかに有意義に過ごすか考えねば! いまこの状況を楽しめるようにしなければ! とついつい力が入ってしまうけれど、案外僕らってそこまで意識してなくてもこの緊急事態の期間のうちに日々の過ごし方を覚えていっているよな……って思うんだ。とくに近所の子どもたちが遊ぶ姿を見ていると適応の早さに驚く。

 僕はコロナ以前から習慣的にランニングをしている。このコロナ生活のなかでも変わらず続けているが、この1ヶ月のあいだでランナーが一気に増えたことに気がついた。時間帯・年齢層・性別問わず。やっぱりみんな動かない生活をしているから体動かしたくなるんだろうなあ。あ、これってひきこもり後の僕じゃん。

 それにランニングをしに出かけた公園では、家族や知人でピクニックをしている場面をよく見かける。それぞれ小単位ごとに距離をあけ、木陰でご飯食べてお茶をしている。サラリーマンだって、仲間たちと適度な距離をとってテイクアウトのお弁当をおいしそうに食べている。シャツやネクタイははだけ、リラックスした面持ち。なんだか楽しげだった。

 僕の住んでいる宮崎県は都市圏に比べ人は少ないし、17人目の感染者が確認されてからだいぶ日が経ち、新たな感染者が確認されていないこともあり、県外に比べまだこうしたことができている。とはいっても街の人通りはほとんどなく、車さえ走っていない。そして程度の差はあれ空気だって張り詰めている。

 ウイルスの脅威もそうだけど、常に張り詰めた空気のなかから逃れたいと思ってランニングやピクニックをしているのでしょう。だいたい人が思いつくことや行動って重なるし、まあ、これらって人々が自分の体の声に耳を傾けるようになったということでもあるし、いままでの日常に問いを投げるものでもあり、新しい日常をつくり出す行為でもあると思う。

 自然と適応せざる負えなくなったというか、新しい日常はもうすでに生まれてきているんだなって感じる。

 上に書いてきた日々の過ごし方の文脈だけでなく、人との関係のあり方、自然との関係のあり方、働き方、暮らし方などなど、この新しい一日一日を体験するなかで徐々に変わってきているのを感じるよ。コロナウイルスの脅威がなくなったとしても、感覚としては「いつもと変わらない日常」「コロナ前と変わらない日常」を過ごすんだろうけれど、そこにある日常はコロナ前の「いままでの日常」とはまったく違うものになっている。

 コロナ後の僕よ、未来ではどんな日常を過ごしているんだい?

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