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8月3日は記念日になった

 目を覚ましてからというもの、なんだかアニバーサリー感が体から湧き出てくる。

 今日はなんの日だっけ。

 誕生日? あれ、僕はもう32歳!? え、ヤバイ!! もっと誕生日まで余裕なかったっけ……。

 と枕に顔を押しつけて狼狽する。

 いやいや、よくよく冷静になってみれば今日は誕生日ではない。
 確かに、世界中の誰かの誕生日ではあるのだが(伊藤英明さんや安住紳一郎さんは今日らしい)、100パーセント混じりっ気なしに僕の誕生日ではない。

 その事実に少し安堵して冷静になる。
 いやまあ、それでも自分の誕生日が迫っていることには変わりないのだが。

 改めて今日は何の日だったか冷静に記憶を辿っていった。

 あ、そうだ。8月3日は宮崎へ帰ってきた日だ。

 2013年の今日、さいたま市のアパートを引き払い宮崎へ帰ってきた。およそ6年間の東京・埼玉生活。これまでの人生で一番刺激的で、一番楽しくて、一番苦しんだ時期だった。宮崎を出ることを決意した高校時代、二度と戻ってくることはない、二度と宮崎で暮らしていくことはゴメンだ、と思っていたのに虚しく帰ってきてしまった。

 そう「虚しく」。

 だって、宮崎の窮屈さに耐えかねて大学進学をきっかけに上京して、その大学では腹を割って話せる友人たちに出会い、東京という多様性のある場所に魅了されて、毎日が楽しいと感じる日々を初めて過ごしていた。そんな場所を離れるなんて選択肢のうちになかった。

 しかし、学生生活が終わってこれから本当の意味で東京で生きていくぜってときに、なんだってコケてしまってフリーター・ニート・ひきこもり生活を送ることになり、それゆえお金は出ていく一方。
 社会と交わっていくことに恐怖を覚える日々だったけれど東京にしがみつきたかったから、帰る決断をするまでの3ヶ月間は新卒以来の就職活動をしていた。しかし、うまくいかずに帰郷することを決意。決めたときは敗北感でいっぱいだった。

 今考えたら仕事を選びすぎていたし、生きる選択肢が狭すぎた。しがみつこうと思えばもっと方法はあっただろうに、そこまで考えられなかったし心の余裕がなかったな。

 宮崎に帰ってきてからというもの、都落ちな気分で過ごしていた。それでも、働き出して目の前の仕事をこなすうちに陰鬱とした気持ちもなくなっていった。それに加えて、街をフラフラしているうちに少しずつ知り合いも増え居場所ができていった。自分の名を呼び、迎えてくれる人たちが出来ることで、東京時代の自分の奢りを客観的に見ることができて、だんだんと「大人」になっていき、宮崎でも生きていけるようになっていった。

 そうこうしているうちに7年の歳月が経った。僕も気づけば30歳を超えていた。
 あれだけ嫌いだった宮崎のことも、今ではそれほど嫌いでもない。だけど、好きと口にするのは小っ恥ずかしいし、なんだか言いたくない。でも、いいところだとは思っている。

 ただ、この土地でずっと生きていくかどうかはまだわからない。
 だからこそ、2020年は仕事の契約が切れることもあって、海外への旅や再上京を考えていた。

 そこへやってきた新型コロナウイルス。すべての計画がパーになった。
 再上京については首都圏の感染状況を見て……と思っていたけれど事態が収まる気配はない。さらに宮崎でも感染が広がっており、8月3日現在では全国6番目の広がりようとなった。

 図らずも生き方や働き方を見直すこととなった。上京はこの1〜3年は見送った方がいいとして、じゃあ自分はその間どうしていたいか、コロナに怯えなくてもよくなったときにどうしていたいか、毎日考えることは尽きない。

 ただ、これまでの7年のあいだに知り合いも増え、仕事でできることも増えた。帰ってきたばかりのあのころとは全然違う。カミュの小説『ペスト』の新聞記者ランベールのように、この場所において自分のできることをやっていく。この混迷の時代のうちに自分の生き方・働き方の下地をつくっていく。

 そんなことをつらつら考えた8月3日の今日。
 宮崎へ帰ってきた記念日、生き方を改めはじめた記念日。

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