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雨の朝に気づくこと

何度もうんざりするほどココに書いてきているし、人に会うたびに口にしている気がするが、僕は雨の日が嫌いだ。とことん。

まだ日も昇っていない時間に外の雨音に目を覚まし、今日一日という日が雨で塗り固められていく様を想像し、それに辟易してまた眠る。
そこから朝シャキッと目を覚ませたことなんて一度もない。

外へ出れば濡れることは免れず、靴も靴下も足もびしょびしょ。傘の差し方が悪いのか、どれだけ直径の大きな傘を差して股から足にかけて濡れてしまう。

そして、ここ宮崎の雨は妙に激しく穏やかではない。「ザーザーッ」という擬音語がぴったりな雨。子どものころ、そんなかを30分歩いて学校へ通っていた。その記憶が強く残っているからか、大人になった今、卑屈な人間が出来上がって、こう雨に対する恨み辛みを書くようになってしまった。

さらにいえば湿度が高くて気に障り、10代以降ずっと気圧の変化に悩まされている。そういうのもあって、雨も、雨降る一日も嫌いだ。雨の日で憂鬱にならなかったのは東京で暮らしていたころくらいではないか。宮崎ほど豪雨になることもなくジメジメもしない。そんなに気にしていなかった。もちろん、ゲリラ豪雨や台風というイレギュラーもあったが。

だからか、『セブン』や『ザ・バットマン』のようにずっと雨が降り続けている映画を見ると陰鬱になるし、東南アジアが舞台になった映画や、タイの映画監督アピチャートポン・ウィーラセータクンの作品を見ていると雨こそ降らなくとも亜熱帯特有のジメジメ感が伝わってきて、思わず首元のかいていないはずの汗を拭き取る仕草をしてしまう(それら作品そのものは好きです)。

たまに雨の日が好きだという人に出会う。僕もこう感じれたらな、と思うことは少なくない。これまで蓄えてきた体験のどこが異なってきたのだろう。

今朝、ちょっと自分の感じ方の変化に気づいた。
今日の宮崎は雨。早朝、目を覚ましたときから雨は降っていたと思う。近くの通りを車が走り去るたびに、雨を弾く音が聞こえる。気圧のせいか、肩が重い、首が凝る。深呼吸をしたくて窓を開ける。ベランダへ出てウッドデッキを踏み締める。

部屋は溜まった空気と湿気で暗いトーンに満たされていたが、外の空気は澄んでいた。雨は降っているし、道路もウッドデッキも濡れているがそんなに嫌な気分にもならなかった。ザーザーッとした雨ではなく雨量は多いがしとしととした雨が降っている。粒が小さく雪のようで、地面に降り注ぐリズムも繊細で優しい。音も静かだった。

こういう雨は嫌いではないかもしれない。そう思った。まだ騒がしくなる直前の外の光景、降り注ぐ雨。それはずっと見ていられた。

ゆっくりとしたリズムで目の前を流れていく雨粒。その一つ一つを確かめるようにじっと見る。起きたばっかりのもやもやっとした気持ちが少しずつ消える。そんなとき、この状態、この景色は好きかもしれないと思った。

自分が自分でなくなる一瞬、自分に対するこだわりが消える一瞬。
僕はこれまでの記憶にこだわり過ぎていたのかもしれない。


※2年前にもほとんど同じこと書いていた。




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