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東日本大震災とコロナ。9年前のあのときも、夜の街を歩いていた

このコロナ禍にあって思い出すことがある。
僕と同じで多くの人がそうではないかとも思うんだが。

今のこの非常事態の感じ、何かがストップしてしまった感じ、物事が思うように動いていかない感じ、時間が止まってしまった感じ、自分の影にビスが打ち込まれた感じ、夜の静けさが降りてくるものでなく強制的である感じ……。

東日本大震災のときとそっくりだ。
2011年3月11日からの2年ほどの、あの空気感や雰囲気にそっくりなんだ。

あのとき、東京をはじめ首都圏は電力需給制限の名のもとに計画停電が行われたり、現在の自粛のように節電が叫ばれた。JRや東京メトロの各駅には液晶ディスプレイに「現在の電力供給量」が映されていた。就活や遊びで新宿駅をさまようたびに「現在 70%」と表示された画面を横目で見ていた。真夏でも、電車の中、そして駅構内やルミネにパルコの中は生温く(冷え性な自分には心地よかったかも)、そんな状況下でたまに緊急地震速報が誰彼の携帯から鳴り響く日々だった。

そんな「非常事態」な毎日を過ごしていたが、不便さを感じたことはない。むしろ、それまで見えなかったあらゆる無駄があらわになって、ちょっと清々した気分でもあった。世の中を斜に構えて眺めていた学生だったもので。

実は僕はあのときの東京の夜の光景、そして夜空が好きだった。
煌々と輝く大都会東京の夜から明かりが消えた。
ビックカメラやドンキ・ホーテの電飾が大人しい。東京タワーは深夜にはその明かりを消していた。

それを東京からパワーがなくなったと悲しんだ人もいた。
 
しかし、僕はこれでいいじゃんと思っていた。

確かに夜でも街を照らす明かりからは、東京っていう街のパワーを感じていたし、人々が蠢いている様子が見て取れるようで好きではあったんだ。

でも、いつも明るいおかげで、逃げ場は地下や建物の影しかない。そういう窮屈さはあった。

そこにいつもと違う東京の街が現れたことで、過剰ではない、適度な「東京の夜」が現れた。街のど真ん中を歩いていて、星をちゃんと眺めることができたのは、あのときが初めてだ。そこには静けさがあった。ちょっとそれには感動した。
しかも、それでも街は成り立っているんだから、これでいいじゃんって思えたのだ。

しかし、だんだんと地震も原発のことも忘れ去られ、今と同じように経済活動の名の下に、震災前と同じ日常がやってきた。

それでも、あのときの未曾有の事態によって多くの人が自分の生き方や働き方を変えてきた。
自分もあの出来事によって価値観を揺さぶられて、少なからず影響を受けた一人でもある。

そしてーー

2011年3月11日から9年以上経った。
個人個人の生き方は間違いなく変わった。
しかし、社会の方は変わったのだろうか。
そして、社会の仕組みは今を生きる人々に寄り添っているのだろうか。
人々の心を支えているのだろうか。

なんだろうか、その変わらなさが9年後のこのコロナ時代にあぶり出された気がしてならない。

同じ非常事態でも、9年前のあのときと今とでは状況と事情が異なる。同じ夜の静けさでも9年前とはわけが違う。今の夜の静けさには人の温もりが足りない、排除されてしまっている。夜の街は嫌われる対象ではない。もっと別の関わり方があるはずだ。

自分自身も含め、みんなコロナウイルスそのものより、不安や疑心暗鬼に突き動かされている。目に見えないコロナウイルスよりも、目に見えない人の心、人々のあいだにある幻想的なイメージ、さながら幽霊のようなものを恐れている。

そうならないための安心の材料として、国や地方行政、それらの実施する政策があるはずだけれど、ほんとに困っている人たちを助けるものになっているとは思えない。

そして、すべてが個人個人の責任に転嫁される始末。これだけ個人が剥き出しになって弱くなっているときに自己責任と言われても、誰にどう責任をとれというのさ。だからこそ、自粛警察が出たり、陽性患者やクラスター発生場所への嫌がらせ・バッシングが止まらない。すごく身近なレベルで人間の醜さを目にする毎日。

それってなんだろうな……とモヤモヤするから、9年前のように夜の街を彷徨い歩いている。カメラを持って街の様子を撮る。歩いていてたまにフッと何かが解決された気分になる。

あのときは東京、今は宮崎。
土地は離れている。しかし、見上げる夜空はどこまでも同じ。
モヤモヤする毎日だけど、同時に希望だって感じてないわけではない。

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