異邦人的に、渡り鳥のように
コミュニティについて考えてみたい。
コミュニティをつくることばかりに目が向けられるなかで、コミュニティをつなげていく作業は忘れがちである。僕はコミュニティをつくることよりも、つなげていくことの方が10倍も大事だと思っている。
コミュニティは意識的にも、そして自然発生的にもつくられうるものである。僕らの周りのコミュニティを見渡してみると、同質の人々があつまり、内輪化しやすい「タコツボ」であることがほとんどである。それ自体はなにも悪いことではない。そのコミュニティ内の絆は強くなり、内輪の熱量は高まり、何かことを起こしやすい気分がつくられる。そしてなにより専門性が高まる。
しかし、タコツボのままでは何かこと起こすにしても、どこかで小さく打ち上げ花火があがるだけでそれが連鎖反応して次へと、そして他へとつながることがない。専門性も高くなると先に書いたけれどその専門性も外部からの入力がない以上、新しい何かを生み出すことはない。タコツボはつねに排除の構造を生む。
タコツボ化したコミュニティから「ササラ型」のコミュニティへとシフト。外部へのアクセスが可能な、そんな隙間のあるゆるやかなコミュニティが必要だ。
解決策の一つは、さまざまなコミュニティが何か共通の目的と問題に目をむけることで結束するという方法がある。コミュニティ生成の起源にある種の「エネミー」の存在があることはこれまでいろんなお偉いさん方が語ってきたことである。東日本大震災後の復興はこれによって成し遂げられているといってもいいかもしれない。しかし、同時に共通のエネミーを想定することは暴力の問題もはらんでいる。その最悪なかたちが戦争である。
こうしたコミュニティについての議論は、とくに日本人的な文脈で何十年も前からこれまでいろんなお偉いさん方が語ってきて、そして問題を指摘してきたことだけれども、結局のところ僕らの日本人性と呼ばれるもの、無意識に身体化している傾向はほとんど変化していない。むしろこの特性に目を向けて逆手にコミュニティをつくり、つなげていくことはできないものだろうか。
以前の投稿(【「文化資本の底上げ」について僕が思うこと】)にもつながるけれど、何かおもしろいことをしている熱量の高いような、そうじゃなくても+と-の関係のような何か良い相乗効果を生み出す個人と個人のつながりのように、異色のコミュニティをつなげてみたい。それによって、ただの流行やムーブメントとして廃れていき忘れさられていくのではない、熱狂が冷めてもちゃんとそこに残っているような、根なし草にならないような、そんな物事を遺していきたい。
そんな、ゆるくてしなやかな「つながり」をつくる個人的な策、僕自身ができる策は異邦人になることだ。異邦人になること、つまりどこにいようが、どのコミュニティに属していようが客観的になることに努める。努めると書いたけれど、どちらかといえばこれが僕にとっての自然な状態なのでそれを自覚的に使うと表現した方がいいかもしれない。今いるコミュニティにおける関係性に敏感になっておく。そして全体を俯瞰して鳥瞰して眺めてみる。それによって、他のコミュニティとの差異に気づく。自分が無意識に行っているクセを自覚的に行使する。
そして、その感覚で他のコミュニティへ渡っていく。さながら渡り鳥のようにして。僕自身は一つのコミュニティにずっと属すことを好まない。だから、渡り鳥のように必要性を感じて他の場所へ移動する。そうしてさまざまな境界線を越えていって、その先々でものを食べるなり身体に栄養を蓄えていって糞を落として、それがその土地の肥やしになる。そんな風にして僕個人の特性を生かしてコミュニティをつなげていければ。それは僕の役割かもしれないとも勝手に思っている。勝手に。僕の唯一できること。
ささやかなことかもしれないけれど、自分がタコツボから脱するためのできることは逆説的な言い方になるが、異邦人としてつなげていくことかもしれない。
P.S.「タコツボ」と「ササラ」の例は政治学者の丸山眞男から拝借しました。彼、60年も前に日本人が内輪の集まり好きで、井の中の蛙になって外とコミュニケーションとらないあげくに自滅していく傾向を指摘してるんすよね(彼の場合は専門的になりすぎて外部と接点をもたない、外部に通じる言葉をつくらない学問の世界を主に批判していますが)。さらにいえばタコツボになるがために、そのコミュニティ内でしか通用しない言葉を日常的に使うから、外部と言葉やイメージの違いが生まれやすいとも。僕らってこの時代から変わってこれたのかなあ。
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