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時には天使的に、時には人間的に。日常の愛おしさってやつ

 普通の生活、当たり前の日常が愛おしい……。コロナ禍問わず、非常事態のたびに痛感して、状況が「普通」に移っていくと、いつの間にか忘れてしまっている感覚。僕らが人間として生きている以上、ほとんどの幸福も、酸いも甘いも、悲しいことも、普段の生活の内側に、日常の営みの中にある。そりゃこうやって言明するまでもなく当たり前のことだし、当たり前であることは当たり前に幸せなんだけど、ほんとはね。

 そういうことに気づけば幸福感に包まれるかもしれないけれど、かといって「当たり前の日常の中に幸せはあるんだ〜」と意識し過ぎても疲れるだけではないか。

 日々食べるおいしいものに「ウマイ!」と言い、よく眠れた朝に今日一日は機嫌よく過ごせると感じ、映画や本を読んで思わず涙をし、仲間と井戸端会議してすっきりし、道行く誰かに恋をしてドキドキして、お風呂に入っていい湯だな……って毎日起こる出来事にいちいち感動していればそれってもう幸せじゃないか。人間らしく感情揺れまくってて。いちいち「感動」しなくたって、おいしいものが食べられるってこととか、何か一つのことですべての嫌なことが吹っ飛んで「アタシ最強」な気分になれればもうい言うことなんてないでしょう。

 こういえば簡単なように見えるけれど、悟りでも開かないかぎり難しいもので。僕だってそんくらい達観できたらと思うことはある。けれど、あらゆる欲望に振り回されるのも悪くないって気がするし、振り回される姿だって人間味あっていいじゃないか(客観的に見れば)、それこそドラマがあって。つまるところはバランスなのだろうか。大切な物事は時には見える形で、時には見えない形で現れるのかも。

 『ベルリン・天使の詩』という映画がある。ヴィム・ヴェンダースの作品の中で一番好きなもの。
 物語の主人公は天使。この世界には人間のほかに天使も存在している。天使は常に人間たちのそばにいる。しかし、人間から天使の姿は見えない。天使は何をするというわけでもなく、ただ傍観するか見守っているだけ。誰かが悲しんでいようが、死ぬ間際でいようが、そこで何が起きても天使にできることはない。ただそばで寄り添い、そばでささやくだけだ(この声も人間には聞こえていない)。

 天使は有史以来すべてを見てきた。人間のこと、人間の生活、人間がどんな歴史を歩んできたかを外側から眺め「客観的」に知っている。しかし、人間の日常の中にあること、人間の内面のこと、揺れ動く感情、痛み、喜び、悲しみ。外側で傍観している天使たちは、それらを自分自身で味わったことがなく、どんなものなのか知らない。それを象徴するかのように天使の世界は色彩のないモノクロだ。

 主人公の天使ダミエルはそんな人間の生活に憧れ、サーカスで空中ブランコを操るマリオンに恋をして、ついには永遠の命を捨てて人間になる。彼は自分の傷から流れる赤い血や、周囲の色彩に感動する。ブラックコーヒーの味を噛み締める。恋するマリオンに出会えず苦悶する。奇跡的に会うことができ、二人の時間がはじまったときに愛を知る。

 天使にとって、人間の生活は非日常のもの。日常の些細な出来事すべてが新鮮で感動的。僕らの普通の生活とやらが、人間となった彼らにとってはとても愛おしい。そして、なにより自分だけでなく他の誰かとも楽しみや喜びを共有でき、ともに同じ時間を過ごすことができる。そして、その果てに生まれてくるものがある。その連続を僕らは毎日と呼んだり、普通の生活、日常という言葉で表現している。

 人間だから知っていること、天使だから知っていること。なんだかんだ言って僕らはこの天使的な立場にいることだってある。自分たちのこと外側から眺めて何かに気づいて、また当事者として人間の生活に戻る。幸せがこの生活の中、つどつど一回かぎりの1日にしかないんだったら、いつ死んでもいいやって思えるくらいにはなりたいね。

(5/10追記)
『ベルリン・天使の詩』の概要・見どころは、こちらの方が簡潔にまとめています。

また、映画の背景や詳しい解説は町山智浩さんがしています。やっぱり映画って世相や歴史を思いっきり映し出すもんなんすね。


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