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NON-VERBALなもの、対話に惹かれる

子どものころからノンバーバル(NON-VERBAL:非言語的)なコミュニケーションに惹かれる。それでいて、今は言葉を扱う仕事(ライター)に就いているのだから、それはそれでおもしろいなと自分で感じてしまう。

ノンバーバルといえば、いろんなものが当てはまるように思う。阿吽の呼吸もそうだろうし、表情ひとつで伝わることもそうだろうし、手話、体に触れること、ダンス、絵画、音楽など、言葉や文字を介さない、身体を使って表現されるあらゆるものがこれに該当するのではないか。

なぜ惹かれるのかといえば、ひとつには僕自身言葉で何かを伝えるのに苦手意識を持っているからだ。口頭ならなおさら。無口というわけではない、それなりに喋るは喋るけれど、昔から言葉が上手く口から出てこない。どうしても擬音や擬態語が多くなるし、「アレ」という指示語が多くなる。喋っているときはスムーズに言語化できないのだ。

「何言っているかわかならい」といろんな人たちによくいわれてきた。自分が喋る場面、人と対面して何かを話さなければいけない場面が妙に不安な状態で生きてきた。慣れた今でもちょっと神経質になることはある。余計な想像をして、それゆえに心配してしまうことも。

そういう意味で、人が集まっているところでは“無駄な”発言は謹んで黙っていることが10代後半〜30手前までは多かったかもしれない。

そういう個人的な悩みもあり、コミュニケーションの場面で起きることに強い関心を抱いていた。どう上手く伝えればいいのかというノウハウ・ハウツー的なことから、伝わるってどういうことかという根源的な事柄、そして言葉以前のコミュニケーション、言葉によらないコミュニケーションもあるよねってことをぼんやり考えるようになっていた。

もしかすると、自分が言葉で表現する以外の手段を探していたのかもしれない。常に不安でいなくてもいいような、それはそれで自分を受け止めてくれるような表現方法を獲得したいと(今書いて気づいたことだが、僕はコミュニケーションの場面で相手に「受け止められた」という感覚に乏しかったようだ。その場面では事実本当にそうだったかということより、自分の認知の癖が出来上がっていたみたいだ)。

あるときテレビで見た東大教授である福島智さんのことが忘れられない。福島さんは目が見えず、耳も聞こえない。自分の体と外をつなぐ感覚回路が絶たれている。だが、“指点字”と呼ばれる、自分の指を他者にタイプしてもらうことでコミュニケーションをとることができる。しかも冗談を飛ばしてウケをとりながら話すこともできるじゃないか。その姿は衝撃的だった。いったいこの人の内部で何が起きているのか。この人にとって他者と関係するってどういうことなんだろうとそのとき問が生まれたのを覚えている。

最近インタビューした理学療法士さんの話も妙に残っている。リハビリで相手の体に触れていると、発せられる言葉以上に相手の気持ちや体のことが伝わってくるらしい。

先週末、高鍋町美術館へ行った。アーティストである知人たちによる企画展。絵画や人形、陶芸などさまざまな作品が展示されていた。そこは言葉ではない、言葉にならない、あるいは言葉にしてはならないメッセージで溢れかえっていた。感じ取ったものに言葉を当てはめようとするとかえって陳腐化してしまうような。感情が死んでしまうような。それをそれとして受け止めたほうがいいような。

作品の世界を体いっぱいに感じる。作品から滲み出るゾワゾワ、それを受け取って僕のなかで起きるゾワゾワ。

会場を後にするときにふと気づいたのだった。

言葉を必要としない空間は気持ちいい。
そんな場所はどこか「帰ってきた」感覚になる。
郷愁を誘うような、なんだか懐かしくて心地よい気持ちだ。
言葉以前の何かが強く愛おしい。

やっぱりノンバーバルであることに惹かれていく自分がいた。

なんだか、僕らは(というより「僕が」か)口から発する言葉、目にする言葉や文字を意識しすぎなのかもしれない。そこに意味を持たせすぎなのかもしれない。

そんなことを思いながら、文章表現がある程度できるようになってしまったこと、記事を書くような仕事をしていることに人間としてのおかしさを感じる。

やっぱ人間って矛盾した存在なんだなあと。

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