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親友の結婚式に行ったら、肛門科で失神した話 【②旅先激痛苦闘編 その1】

2年半の時を過ごして


アカウント名の通り、私は京都出身のロックバンド、くるりが大好きだ。大して頭も良くない「自称・進学校」と自校の教師が揶揄する陰鬱な男子校時代に、くるりの音楽は自身の空虚だが欲求不満な胸に寄り添うと同時に、岸田繁氏の歌声からは、男子高校生がまだ見ぬ「ダイガクセー」あるいは「オトナ」というやがてくる漠然とした未来を垣間見せてくれるのだった。齢30を迎えた今となっては、その曲たちは追憶の一助となっているから不思議なものだ。本稿に入る前に、私が初めて聴き、そして魅了された一曲から一部を引用したい。

この街は僕のもの 手を取り登った山も

慌ただしい日々 知らぬ間に蝉時雨も止んで
京阪電車の窓から 見える君の背を追って
飛び出して お願い微笑んで
昼も夜も我を忘れ 鍵をなくして

さよなら言わなきゃそろそろ
迷わず ためらわず

夕暮れのスーパーマーケットの前で吸うタバコや
それを見て 微笑む愛する君のまなざしも
青すぎる空を飛び交うミサイルは ここからは見えない

『街』くるり(2000年)


気づけば前回の投稿から、2年半もの歳月が流れてしまった。蝉時雨ははや3回鳴り止んでいた。飽きたというよりも、日々忙しなくすごしているうちに、気づけば時が過ぎてしまった。過ぎゆく時間はまさに「知らぬ間」に過ぎていく。我々は往々にして忘れやすいものだ。酸いも甘いも喉元を過ぎてしまえば過去になり、片隅へと追いやられてしまう。一方で、記憶はふとした瞬間に鮮やかに蘇り、我々の胸にほのかな温かさ、または痛みをもたらす。それは視覚的には思い出されなくとも、面影として脳裏を過ぎる。

このアカウントを思い出したのは、6月頃のことだった。多忙をきわめた半期締め付近で、またしても不摂生をした。すると案の定、頬に大きなニキビができて、胃腸の調子を著しく悪化させた。明らかにストレス、明らかに暴飲暴食がたたっていた。急ぎ皮膚科に行き、塗り薬と飲み薬数種を処方してもらい一息ついたところで、2019年の出来事と、このnoteを思い出した。

そして私は、その時にぼんやりと、会社を辞めることを決心した。正直に言って、肌荒れをしたことはこれまで幾度かあったし、皮膚科のお世話になったのもこれが初めてではない。しかし、この折に当たっては、キッパリと決心したのだった。2年半の時を過ごして、私はなにも変わっていなかった。あくせく働いて、その対価で得た金は増えたが、人間性という面では、私はちっとも変わっていないと気づいたのだ。

ただ、一つだけ変わったことがある。恋人ができたのだ。そして、その時初めて、変わりたいと思った。仕事は真剣に取り組めば成果として応えてくれた。ありがたいことに成果と比例するかたちで内外の評価も増していった。しかし、これ以上ストレスを抱えて、苛立ちを抑えきれない自分でいたいと思えなくなったのだ。社会人としてというよりも、私自身の幸福を求めたくなってしまった。

そして先月末をもって、私は会社を辞め、晴れて無職の身となった。これから先のことは、まだ決まっていない。その選択は社会的に見れば愚かなものだっただろう。しかし、私という一個人として、そして人間性という面において、私は一片の後悔も持っていない。私には、どうせやってくる馬鹿らしい未来の数々と、これから書くような、馬鹿らしい過去しかないのだから。

前置きが長くなってしまったが、本題に入りたい。本題といっても、本稿の大部分は蛇足となるだろう。忙しなさしかなかった社会人生活の中で、ぽっかりと空いた有閑の時。可能な限り記憶の片隅で眠っていた思い出に降り積もった埃を、ゆっくりと吹き払いながら記載していく所存だ。この話をどれほどの方が見出しくれるかは分からないが、この長くて下らないにどうかお付き合い願いたい。

思い出は遥かな空に


旅立ちの朝は、青く澄み渡った空が広がる、快晴の日だった。大き目のバックパックに革靴やシャツ、数日分の着替えとエトセトラを詰め込み、新調した安めのオーダースーツを担いで、当時高松行きで最安値のLCCがあった成田空港に向かった。貧乏旅行は旅費を浮かせる代わりに移動の手間を増やすものだ。それもまた、貧乏旅行をともに歩み、安酒を煽って胃酸を撒き散らした大学時代の友人との思い出に浸る、一つの意義をなしていた。

しかし、この感傷に溢れる旅程が、私の肛門にとっては、後に非常に重篤な事態をもたらすのであった。しかし、その時の私(の肛門)にはそれほどの痛みを知覚しておらず、行きの旅程は私の意図した通りのものであった。

ここで、今回の結婚式の主役の一人(当時・新郎)である友人を紹介したい。以下の事項は本稿の趣旨から離れた私の思い出話が多分に記載される。しかし、以下の記載は私にとっての記憶を呼び覚まし、当時の気持ちを整理する上で(あくまで筆者個人の営みとして)不可欠だったため、大幅に横道に反れることを承知の上で、下記は省略せず記載する。便宜上、彼のことは「Kくん」とする。仮称の意図は特にない。

我々には時折、自分自身には到底敵わないような人間とその才能に出会うことがある。それは中学生の時もあるし、あるいはもっと歳を取った社会人の時もある。そういった人間がいるからこそ、我々は自らの小ささを知り、謙虚さをもちながら成長の途を歩むのである。天上天下唯我独尊という人間はそれほど多く存在するわけでなく、それを自称する人間の多くは、それから目を逸らしているだけなのだと思う。

Kくん。私にとっての彼は、そういった挫折感を実に感じさせてくれる人間だった。

飛行機の小さな窓から覗く外の風景は長い滑走路を瞬く間に滑り出し、大海原へと飛び立ち、波間を進む輸送船は遥か小さく見えていた。そんなものたちを眺めながら、私は大学生活を思い出していた。

初めて彼と話したのは、大学で初めての授業で、確かフランス語の授業だったと思う。私たちが入学したのは2011年。ちょうど震災と大学入学が重なった学年だ。私たちの大学は、入学前のオリエンテーションが充実している触れ込みだった(と記憶している)。入学前の説明会や合宿などが用意され、「入学前には友だちいっぱいできてるよ!」というようなプログラムが用意されているらしかった。男子校での懲役生活を終えたばかりで社会性のかけらもなかった私にとって、それはありがたくもあり、同時に不安を覚えるものであった。特に女性と仲良くなる術など、3年間で簡単に忘れるものだ。

しかし、そんな浮かれた期待や不安も、3月11日に見事に消し飛ぶことになった。北関東の北部で農家を営む私の実家は一応被災というカテゴリーに含まれるレベルで震災を体験した。私の部屋の本棚からはくるりやアジカン、Oasis、RadioheadなどのCD、当時父が定期購読してくれていたロッキンオンや書籍が勢いよく飛び出した。それらが偶然私の部屋に来ていた母を直撃し、絶叫。震度5強の揺れに家の壁にはヒビが入り、当時家に住み着いていた猫は勢いよく家を飛び出した。そして、農家を営む実家の畑では、重油タンクが破裂していた。

我が家にとっての損壊は家にヒビが入った程度で、実質的な被害は重油タンクの破裂により畑の一部の土壌が壊滅しただけだった。そして、テレビ上から流れる震源地付近の光景を、家族揃って慄然と眺めていたことを記憶している。

その時、全国の多くの大学では、入学式やそれに伴うオリエンテーションなどが自粛となり、実際私たちの入学は1か月以上遅延することになった。一応授業のガイダンスなどはいくつか開かれたものの、同級生の人となりを知ることは、授業初日までは叶わなかった。

その日は、私にとって一世一代の大勝負のような心持ちだった。自分にとって、初日から女性と友人となることは端から無理だと思っていた。せめて初日に、同性の友人がほしい。そのためには、自分から待っていてはだめだ。はじめの一歩でつまずくわけにはいかない。そんな心持ちで校門を通ったことを記憶している。

結果として、その気合は運よく結実して、その日に話した友人のほとんどが明日挙行される結婚式に参加することになった。その日、私が初めて声をかけたのは、Kくんではなくて、自分よりも遥かに背が高くて、あまり気が強そうではないTくんだった。

「ごめん、実はまだ全然友だちいなくって、よかったら一緒に授業うけてもいいかな?」

私がそういうと、Tくんは快く受け入れてくれた。そして、Kくんが話かけてきたのは、その直後だった。

「ごめん、こっちも知り合いいなくて、同じような話してたんだよね。合流しようよ」

そうして個人がペアになり、小さなグループになって、そのグループ2つ分がさらに合流して、4年が経ち、今に至るのだった。その中心にいたのが、紛れもなくKくんだった。あり得ない話だが、もしもその場にKくんがいなかったら、そんなことにはならず細々とした少数部族的な接触と、場合によってはくだらない小競り合いに終止して大した広がりはなかったであろう。

自分にとって、Kくんは大学時代で一番腹を割って話した友だちであり、同時に一番嫉妬していた。それは自分に与えられなかった豊かな感性や才能、コミュニケーション能力や生き方の巧みさではなくて、どこかヤキモチに似た嫉妬だった。誰とでもうまくやれて、誰もが魅了される存在。だからこそ、私たちのほとんんどは、都内に在住し、働いていたにも関わらず、なんのためらいもなく高松に向かっているのだった。

Kくんの引力は不思議なのだ。そして、Kくんと本当に親しい友人であるという自負を持っているのは、自分だけではないことを、私は知っている。参列するすべての友人が、Kくんの「親友」たちであるが、Kくんにとっての「親友」という存在が自分であるという確証は、誰一人持ち合わせていないのだ。

高松に向けて海上を行く飛行機、途上の空には遥かに青い海と、空が広がっている。遠くから見れば境目なく交わっているように見えるが、その間は永遠に離れた距離があるものだ。だからこそ、僕はKくんを未来永劫、親友だと思っているだろうし、その反対は分からない。聞きたいと思うこともない。けれども、その思い出はやはり美しくて、ノスタルジックな思慕をきれいに晴れた空に投影するくらいには余裕があった。この時までは。

むず痒いバスを降り立ちて


高松空港に降り立った私は、冷や汗をかきながらリムジンバスを待っていた。飛行機が滑走路へと着陸した際、肛門に昨日感じたよりも強い痛みを覚えたのだ。それは一瞬ながら、昨日感じた痛みよりも鋭く、大きなインパクトのあるものだった。思わず腰を上に逃がそうとしたが、シートベルトはそれを許さなかった。

時間にしては僅かであったものの、その衝撃は非常に驚くべきものであり、同時に尋常ならざるダメージを私に与えたのだった。すでに痛みは消えていたが、私はまるでぎっくり腰になった人のように、腰回り(正確にいえば尻周り)をいたわりながらハッチから荷物を取り出し、飛行機を後にしたのだった。

バスを待つ間、正直いって私は恐怖を感じていた。地方は都内ほど道路が整備されているとはいいがたい。ある程度凹凸のある道路も通ることだろう。

(もしまた、大きな衝撃があったとして、その時、私の肛門は再びあの痛みを感じるのだろうか……)

自身で体験したことのない痛み、そしてそのトリガーは衝撃であるということは分かる。ゲリラ的に訪れる肛門の痛みに恐怖しつつ、私はどこまでも青い高松の空を、祈るように眺めていた。

しかし、バスに乗ってみると、肛門は存外、痛むことはなはなかった。その代わり、私の肛門にはどこかむず痒い感覚が湧き上がっていた。幸にして最後尾に座っていたため、周囲から怪訝な視線を送られることもなかったが、そのむず痒さが増していき、腰を不自然に動かしていた。

むず痒い尻を持ち上げ、私は高松港に降り立った。8月の照りつける日差しは、少し傾き始めていた。Googleマップを片手に、泊まる宿を目指ししばらく歩くと、遙かな海原を眺める港にたどり着いた。水平線上を行き交う貨物船、風が運ぶ潮の香り。ようやく私はここで、これまでの不安を忘れて、初めて訪れる四国の旅情に浸ることができたのだった。

予約した宿は、物価の安い高松にあって最も安いビジネスホテルだった。そのホテルが所在しているのは、やんわりとした表現でいえば、高松における「遊び場」だったのだろう。その地帯はちょうど「凹」の形になっていて、私が泊まったホテルは右の方で、結婚式場は左手にあった。アクセスは抜群だった。ただ、そのホテルはどうやら、出稼ぎに来ている人々の定宿となっているようだった。

チェックインをしたのは、ちょうど17:00頃だったと思う。鍵を受け取り、エレベータに乗った。部屋の階のボタンを押そうと思った時、ボタンの脇には赤黒い染みがあった。蛍光灯の弱い白色に浮かび上がるそれが何かはここでは言及しない。ただ、それが不気味であると同時に、あることが脳裏に浮かび、私は急いで部屋へと向かったのだった。

部屋について、私はまずユニットバスへと向かった。パンツを脱いで便座に腰掛け、そして安堵した。出血はしていないかった。しかし、トイレットペーパーで肛門を確かめた時、それは杞憂でないことが分かる。そこにはむず痒さを超えた、痛痒さがあったためだ。

夕方の薄暗い部屋の中、未知の部位に現れた未知の症状に、私は再度戦慄を覚えていた。おそらく、この旅ではなるべく肛門に刺激を与えない方がいい。それだけは分かった。幸い、トイレはウォシュレットを設置していた。それを見て私は「なるべくデリケートに扱ってやろう」と決心し、私と同じく式のために高松を訪れていた友人と合流するため、高松の街へと繰り出していった。

後日、肛門の優しい味方であるはずのウォシュレットによって、私はとんでもないダメージを受けるのだった。

怪しげなスナックのママの予言

高松の夜も更けてきた時分、それぞれのホテルから合流した私たちは、薄暗い灯りの小さなスナックにいた。時間の経過を感じさせる木を基調とした内装で、席はカウンターしかない。カラオケもなく、所狭しと並べられた酒瓶の数々は、さながらバーのようであった。ただ、接客を行うママの姿や、おそらくはかつて来た客や常連が贈ったであろう装飾品の不揃いさが、店の重厚感を和らげている気がして、ここではスナックと呼ぶことにする。店の名前も覚えていないし、もう一度高松に行ったとしても、そこに辿り着ける自信もない。旅先に訪ねる店というのは概ねそういうものなのだろう。そういうところこそ、一層味わい深い印象を残してくれるものだ。

完全な記憶の美化である。実際のところは、例のごとく友人と合流し、讃岐うどんを食べ、その後居酒屋に寄って一通り酔っ払うまで酒を煽ってなんとなく立ち寄ったのがその店で、明日の午前中から始まる結婚式にあって、愚かなる新郎の悪友連は高松の夜を酩酊するまで堪能していたのだった。

酒に酔うとは、とどの詰まるところでは、脳を麻痺させる行為であって、感情を増幅させる反面で、感覚を鈍らせるものだ。私はその店に入った頃には尻に感じていた違和感のことなど忘れ、誰よりも酒を煽っていた。今思えば、その後に訪れる惨劇を和らげる、またはそもそも起きないように対策できる点は多々あったと思う。そればこの日に始まったことではなくて、特に酒量を自制すべきである点であることは、もはやいうまでもあるまい。

ママはとても気さくな人で、店に訪れたことのある有名人や高松の良いところなど、色々と話しくれた(気がする)が、それもすでに忘れてしまった。ただ、親切なママ相手に、我々は色々と馬鹿な話をしながら、楽しいひと時を過ごしていた。やがて各々に遠方への移動の疲れが出始めた頃に、もうそろそろ帰ろうかと目配せをした。目線をカウンターに戻すと、ママは私を見つめていた。

「あなた、随分痩せているけど。身体に気をつけた方がいいよ。痩せ型の男は早死にしやすいから」

その頃にはすでに酩酊していたので、私はにやけた顔で「気をつけま〜す」と気の抜けた返事をした。しかし、ママは一向に心配そうな表情を崩さず、私を見つめていた。久方ぶりに親に怒られているようなバツの悪さを感じて、私は目を逸らして、水の入ったグラスを傾けた。

「あんたみたいなタイプは、胃とか腸とかが弱いタイプでしょ?そっからやれて、もっと痩せ細って死んでいくのよ。あんたみたいなタイプの、痩せっぽっちの大酒飲みが前に常連でね、その人も来なくなったなと思ったら、大腸がんで亡くなったって」

先ほどの明るい酔いは既になく、既に麻痺した思考の中で、私はいくつかの感情がないまぜになって混乱していた。一つは、胃腸について指摘されたこと。ここ最近の胃腸の乱れと先ほどの違和感を思い出し、再び不安を覚えたのだった。もう一つは、かつての常連の話だった。その数年前に、私は祖父を亡くしていた。直接的な原因ではないが、大腸がんを患っていた。不意にそのことを思い出して、当時のざらつく心境を思い出していたのだった。

ママからの指摘を、酔っ払った友人たちは笑いながら囃し立ててきた。私は愛想笑いをして、友人たちと会計を済ませ、帰り支度を始めた。

「友だちの結婚式前に変な話しちゃってごめんね〜。ただ、胃腸の病気は怖いし、しんどいから気をつけてねって話」

既に朗らかな表情に戻ったママは、優しく送り出してくれたのだった。友人たちとは少し歩いてから、それぞれのホテルへと分かれた。左手に暗い高松港を臨む帰り道に、ママの言葉を反芻していた。それは思い当たる節しかないからであり、今の不安と同時に、自身の行く末にも一抹の不安をもたらしたからであった。

この結婚式が済んだら、自分の生活を立て直さなければならない。そう強く思った。その分、明日は思う存分楽しもうではないかとも。そんな甘い決心を胸に、私は夜になってより陰鬱になったホテルのエントランスへと戻ったのだった。

しかし、そのような決心も、最早遅すぎることであったと気づくのは、結婚式後の地獄の日々が始まってからなのであった。

次回、【旅先激痛苦闘編 その2】に続く

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