清少納言は一説に「清原諾子」なのか
清少納言は実は本当の名前ではなく、いわばあだ名であり、また本名は一説では「清原諾子」というということは、昨今いくつかのメディアを通してひろく知られるようになった。
角田文衞氏の『日本の女性名 歴史的展望』(国書刊行会 2006年)によれば、清少納言の実名と伝わる「清原諾子」は清原元輔なら付けそうな名前だとされている。
清原諾子という名前に関する言説を見ていると、「根拠はハッキリとしないものの、江戸時代の史料では清少納言の実名を『清原諾子』と伝えるものもある」と紹介されることがままある。しかし、近世ににわかに現れた「清原諾子」説は「一説」の範囲で扱っても良いのだろうか。
そもそもこの「清原諾子」という名前は近世の『枕草子』の注釈書に見られる説である。
まずはこの説に関して最も古く見られるとされる『枕草紙抄』の本文を以下にあげる。
この記事を信じれば、『女房名寄』という史料に「なぎ子」という名前が幼名として見え、また名も「諾子」だったそうである。
この『枕草紙抄』は伊勢貞丈の『安斎雑考』に収録されているものであり、長く貞丈の作と考えられてきた。貞丈はすこぶる有職故実に長じており、なるほど諾子説も貞丈がいうならば、さもありなんとも思わされる。
しかし実はこの『枕草紙抄』と伊勢貞丈とはなんら関係がないことが研究により示されている。田中重太郎氏の「「枕草紙抄」の作者について」(『枕冊子本文の研究』初音書房 1960年)によれば、『枕草紙抄』は多田南嶺(義俊)によって著されたそうである。本文を読んでみると、著者が自分を指して「政仲」と書いている。「政仲」は多田南嶺が義俊の前になのっていた名であるそうである。
『枕草紙抄』には「大炊殿本」や「閑院本」といった諸本の本文が引用されているのだが、これらは現行の『枕草子』諸本の本文にはいずれも見られないという不思議な現象が起きている。『枕草子』諸本に見られない「本文」が引かれる現象は多田南嶺の他の著作においても起きており、何らかの関係を伺わせる。
これはどのように解すべきだろうか。これについては伊勢貞丈の『安斎随筆』巻五にみられる指摘が参考になろう。
上記にしたがえば、南嶺は国学に通じているものではありつつも、自分の説を強めるために偽書をみずから創作し、それをあたかも元々あったものかのように引用する癖がままあったらしい。
これを踏まえた上で『枕草紙抄』を見てみると、不思議な点がいくつかでてくる。例えば「うへに侍ふ(ママ。なお現行の本では多く「さふらふ」)御猫は」についてここであげられている史料に、『小一条右府記』の本文として次の引用がなされている。
小一条右府が誰を指すかは不明だが、この文章は本来小野宮の右府藤原実資の『小右記』にみえる記事である。これだけでは、著者の誤りかもしれないものの、他にも引かれた史料を見ていくとその摩訶不思議さに気付かされる。
いくつかの史料については実際にある名前で、内容は何とも惹かれるところであり、『枕草子』の内容を補う文章である。しかし『神事部類抄』にはこのような内容は見られず、『管見記』にも実在しない記事であり、どの史料も南嶺の手によって創作されたと考えられる。
以上を踏まえたとき、『女房名寄』にみられるという清原諾子という名前も、根拠のない南嶺の創作と考えるのが自然だろう。
「清少納言の本名は江戸時代の注釈書の説に『清原諾子』とされる」という表現は厳密には誤りで、「江戸時代、多田南嶺によって清少納言は『清原諾子』が本名とされたが、『枕草紙抄』に引用された他の史料とおなじく、恐らく創作とみなせる」という方がよいだろう。
(『安斎随筆』及び『安斎雑考』の本文は『故実叢書』翻刻による)
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