僕の少年野球指導の挫折物語② 20年指導して学んだ色々なこと
50歳過ぎの初老型 少年野球指導者です。
前回の続き書きます。
少年ソフトボールの監督を始めて6年目。
その年の卒団生は、ほぼ全員低学年時に入団してから指導してきた子供たち。
大会でも強く、全国大会への出場は叶わなかったが県ベスト4まで言ったチームでした。
手塩にかけて育てた(これも指導者のエゴですが)の選手たち。
中学で野球を続けなかった選手たち
将来高校野球でどれくらい活躍するか楽しみでした。
ところが数か月後に聞かされた話に耳を疑いました。
卒団したの半分以上の子が野球を続けませんでした。
きつい練習への嫌悪感。
試合に出られないのにきつい練習。
良かれと思った勝手な気持ちが選手の気持ちをくじいていた。
これは自分的にはかなりショックでした。
指導が自分の価値観の押し付けになるとヤバい
昭和時代ど真ん中野球を体感してきた僕は、潜在意識のどこかで悪しき根性論が根付いていたと思うんです。
意識のどこかに
「君たちもヤレ!」
と。上から。
伸びる子、野球を続ける子は言われなくても練習します。
だから強度の高い練習は好きでやるべき。
野球が上手くなれば、みんな幸せになるはずだ!
という勘違いも甚だしい押し付けは間違いというか、迷惑というか、もはやキモイ。
指導者は、いかに野球の楽しさを選手に伝えるかが大切。
この卒団生たちとは、その後のOB懇親会で再開しています。
その時の卒団生の言葉に本当に申し訳ない気持ちで一杯になりました。
「いや~監督。やっぱり野球続けとけばよかったと今になって思いますよ」
「やっぱ高校野球やっとけばよかったすよ~」
辞めさせてしまった原因は僕。
野球が悪いんじゃない。
指導者の考え方や言葉一つで子供たちの人生を変えてします恐ろしさ。
身をもって感じました。
親子の係わり方にも気付けなかった
卒団生が現役時の親御さんたちの熱量はかなり高かったです。
熱量が高いことは良いことですが、間違った方向へ向かうと選手にとってよくありません。
試合中に𠮟責してしまう親の子は、自分で考えてプレーしなくなります。
守備終了後、ベンチに戻ってきた際、僕の顔を見る前に親の視線を探してしまう子など。
当時このような子達にもっと寄り添ってあげてたらと激しく後悔してます。
星野仙一監督への間違った憧れ
僕の幼少期、中日ドラゴンズに星野仙一監督がいらっしゃいました。
鉄拳制裁当たり前で、あの三冠王、落合博満選手へもきつく当たる。
一見すると根性野球でドラゴンズ優勝に導びいたように見えました。
その姿勢が正義という錯覚が、当時の僕にもあったと思います。
星野仙一監督は表向きは怖いのですが、裏では選手の事をとことん思いやっていたことを知ったのは、かなりあとの話し。
わかりやすい部分だけを切り取って勘違いしていた僕は大きく反省したし次第です。
いかに楽しく上達する場を提供するか
指導の考え方にゴール・正解はありません。
子供たちはそれぞれ性格が違います、育った環境も違います。
指導者は個々の性格を分析し、その子に合った指導法を探らなければなりません。
大切なことの一つに、
自分の判断だけでその子の性格を簡単に決めつけない
ということです。
判断を間違ってたりします。自分の感覚を過信してはいけません。
それからは、チームにヘッドコーチ制を引き、常にコーチ陣と話し合い指導方法や練習メニューを組み立てることにしました。
選手に寄り添うことを徹底し、親御さんに家での生活態度なども聞くように努めました。
さらに、バッティングが好きな子には徹底的にバッティングの上達を目指してみたり、戦略的なことが好きな子に試合中サインを出させてみたり。色々チャレンジしてみました。
すると最近の子は100%中学で野球を続けてくれるようになりました。
中学で野球を続けてくれるかどうかは指導者の通知表みたいなものです。
これからも試行錯誤が続きますが、試行錯誤を続けようと思っています。
その後、選手数の減少問題が勃発し、チーム存続の危機に。
その話は次回。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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