写真と
写真は好きだ。このありきたりな一文を言えるまでに何年かかかった。
①撮られる自分との対面
自我が生まれるのが遅かったのか、小さい頃自分の写真を見ても何も思わなかった。
だが、よく覚えているのは幼稚園生の頃の記憶だ。友達も少なかったのか、その時は一人で絵を描いていた。大きなカメラを持ったおじさんが来て、園児一人一人のポートレートを撮って回っていた。
「はい!笑ってー笑ってー!もっとー!」と言われたのをよく覚えている。自分では必死に作り笑顔をしているつもりなのに、何を要求されているのかわからなかった。数日後、届いた私の写真を見て驚いた。
あんなに精一杯顔の筋肉を使ったのに、全くうまく笑えてないどころか、半笑いで困り顔の変な子がいた。私はその写真が好きになれなかった。
「上手な笑顔」を意識するようになったのは、それ以来だったのかもしれない。カメラを向けられても自然体になるのはずっと困難になり、カメラに向かって可愛くポーズを取る友人達が羨ましかった。心から楽しい瞬間にだけ、「へんじゃない顔」の写真が撮れるのであった。
②美しさを見出す
美しく見えるものとそうでないものを小さい頃から無意識に選別し始めたのかもしれない。中学生の時、誕生日にもらった赤いデジカメを手にした日から、私は美しいものを撮りたかった。
それは冬の朝の霜がかった茂みであったり、木の陰から突如として現れたリスだったり、可愛い女の子の壁画であったり、ハートの形をしたコンクリートのかけらだったりした。
悪戯で私のデジカメで自撮りを撮り溜める友人はやはり綺麗で、試しに真似してみると、ちんちくりんのアジア人が映るのだった。
そして私が美しいと感じた風景達を綺麗な彼女は一瞥しただけで通り過ぎるのだった。
この世界は私にしか見えないのかもしれない。
自惚れにも似た発想がその時からまとわりついて離れない。今やゴミが光る早朝や、疲れ切った顔の大切な人。飲みかけの瓶ビールに伸びる友人の手。それ等全てが美しいのだ。
私は私にしか見えない美しさをその綺麗な友人に伝える為にも形にしようともがく。
③写真のつく嘘
写真は嘘も真実も切り取れる。
真実は、そこにあるもの、物質としての証明、証拠。
嘘は、何重にも重なっている。その錯覚に魅せられるのだ。
まず、写真として二次元に収まった瞬間、それはそこにあった世界をある一定の方向から、その限られた時間、限られたフレームの中を視覚的にのみ、切り取っているだけなのだ。
次に色、これは自在に編集できるし、人や動物にによって見える色も違ったりする。フィルムであれば、選ぶ種類で色合いが決まる。
そしてその写真の背景、写真のみでは見る人が想像力を働かせるしかない。時代、写っている人達の関係、撮られた状況、カメラマンとの関係、説明はないと全ては妄想の中だ。
真実はもう一つある。その場の雰囲気だ。
これは主観的な話だが、これだけは騙せないと思っている。だから、どんないいカメラを使っても、古いスマホのカメラでも、その場の雰囲気と思い出が混じった写真は騙せないのだ。他者が見ても、その場の雰囲気、気持ちが本物であれば、それが伝わってくる。
嘘と真実が織り混ざった色んな意図の色んな種類の写真。どれもなくてはならないと思う。
④カメラの楽しみ方
ここまで色々語ったが、私は何者でもないし、何者かであったとしてもカメラの楽しみ方はシンプルで自由でいいと思っている。
美味しそうなご飯を撮って、綺麗な夕日を撮って、友人と自撮りして、大好きな近所の猫を撮ったりして。
誰もがうんちくを考えながらカメラを構えてたら、手がすくんでしまう。
記録用でも、なんとなくでも、撮ってればその人なりの楽しみ方があるはずだ。
写真が好きだ。今なら自分のちんちくりんでへんな顔の写真も好きと言える。