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カッコ悪い道を「選んだ」男 カッコ悪い夢を「選んだ」男

(タイトル「」は筆者。)

無様な生き方

 我ながら思い返すに無様な生き方だ、と思ってきた。
 しかし、カッコ悪い道も夢も、私が選んだつもりでいて本当は相手に選ばれていたという状況なのである。

 まだこの歳になっても、結婚して家庭を持つことが他人並みにできないとだめだ、人と同じ事ができない自分はダメだ、そう頭をよぎることがある。街中や雑踏で当てつけられると特にそれを感じる。

 運命があるとすれば、私が運命の前髪をつかんでここまできたというのは誤りであり、運命に選ばれたと思った方がスムースに合点がいくこともある。
 運命もといチャンスの神の前髪を主張するとき、それは他人に対して謙虚でなく裏腹にマウントをとろうとする人の言い草である。
 そういう人が挫折したところを見て溜飲を下げたいと思ったが、同級生もまた未婚で非正規を「選ばざるを得なかった」いや「それらの身分に選ばれた」私を見て溜飲を下げた思いだろう。その意味では私は彼らに「負けて」しまったのである。

カンダタの罪

 以前から修羅道に墜ちれば修羅の行いを繰り返すしかない、醜い、とここで書いた覚えがある。溜飲を下げるという発想自体が既に、菩薩心ではない事になるのではないか。
 中学生の頃、図工の課題で芥川の『蜘蛛の糸』にヒントを得て血の池地獄と他の亡者を足蹴にするカンダタの絵を描いたところ、来賓玄関近くの廊下に貼り出されたのだった。そのカンダタに蜘蛛の糸を垂らしたのが菩薩だった。生前のわずかな善行ゆえに「選ばれた」のだが彼はその行いによって無にしてしまう。
 もしかしたらそこに、「選んだ」という驕慢があったのではなかったか。片隅にでも自分の因果の末に「選ばれた」という謙虚な気持ちがあれば他の亡者を足蹴にしてもろとも地獄堕ちするという展開はあり得なかったろう。実際には芥川がどう考えていたかは分からない。たとえである。

やっぱり選ばれる側の論理

 このように、提婆達多を連想させるカンダタではあるが、悪人正機というように仏の道に「選ばれる」、見いだされるように、自分が何かを努力してその方向が間違っていないから成功したというのではなく、周囲の人々、ご先祖様、父母の存在に助けられて「我」というのはいまここに生かされているのである。他者にとっての「我」を含むそれらの存在一つ欠けてもこの世界は成り立たなくなる。選んでくれる存在があるから私も今ここにこうして在るのである。もしあなたが追い詰められても死を選んではならない、なぜならあなたにつながっている人々の世界もまた狂ってしまうからである。生ある限り生き延びていきたい。

 カッコ悪い道に、カッコ悪い夢に「選ばれて」カッコ悪い生き方をする。それは何でも自分の努力と方向性が良いと言い張る他者と同じ生き方をするのが正しいのだからカッコ悪いのは誤った道である、それが多様性以前の世界観ではなかったか。同級生達の世代、私も含んでだが、このように多様でなく頭がかたくなっている。更に悪いことには邪宗の布教の如く、自分達こそ善で後の世代は悪だ、と決めつける節もある。もうその同窓会には参加したくない。私の頭の中は承認欲求も否定できないが、彼らほど成功に囚われてガチガチになって生きることもできなくなった。

流されながら生き延びていくこと

 選ばれて生きる、生かされるとは、別の言い方をすれば流されながら生き延びていくことにもなる。周りと同じく難易度の高い生き方を決められなくてもいい。競いたい人たちには競わせておけばいい。若い世代ほど私のこうした世代を煙たがっている。若い人に合わせていこうとする私に同級生たちは奇異の目を向ける。だが、恩知らずにも同じ方向ばかり見ていることが芸ではない。私はそう思う。
 歌もWe are the championsではなく、旅人よ〜The longest journeyのほうがいい。

2024/01/14 ここまで

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