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2024/07/15 観念的に究極の社会主義国とはどこだ?

障害者だって働ける

 障害者は、特に精神障害者は残された可能性に目を向けることすら許されていない現状。ある人は障害者は使い物にならないから国が食わせれば良いという差別ともとれる発言をしている(Xポストにて)。

そんなに障害者はダメなのか?そんなにいつ障害を負うか分からない健常者がエライのか?いつこちら側でお世話にならない保証などないのに。想像力の貧困と無知の結果なのである。

 ある人は社会不適応でありながらそのポストをいいねするだけでなく、リポストまでしていた。私はその人をフォローしているからリポストが多いと嫌でもその人の考え方が見えてきてしまうのだ。
 その人は働かなくて助かるならと思ってリポストしたのだろう。
 だが私は意見が違う。障害者だって働けるのに国が食わせればと切り捨てるのは、口は悪いがユダヤ人だけでなく「生きるに値しない命」として老人や身体障害者や精神障害者もガス室送りにしたナチスと何が違うだろうか。(cf. T4作戦: Tiergartenstraße 4、直訳すると、ベルリン動物園通り4、作戦本部があった場所にちなむ。下のリンク先参照。)

私は周りの足を引っ張ろうとも、残された可能性には貪欲であっていいと、個人的な体験からそう思っている。

 健常者にだってFIRE目指して働かないことを望む人がいる。
 でも、それとこれは同じではない。

トリクルダウンか自営(自己防衛)か?

 有り体に言ってしまえば、株や投信や外貨というのは投資した代償としておこぼれに預かってようなものかも知れない。

 つまり自営業でいえば官公庁の仕事をもらっているのと(ツテで)取引先を探していくぐらいの違いはありそう。

私財を蓄えるのが優先。

 障害者雇用先にも選ばれるだけの強みと弱みを自ら把握しておくのが強い。これは自らの残された可能性を資本として捉える仕方。

 働く人がいなくなって金だけが動いているというのは歪な資本主義社会ではないか?

 行き着くところ、人々は金のために働かないで自家栽培野菜類でバーター経済をしていくのか?仕事がなくなるから障害者雇用もなくなるとでも?

とんでもない、新約聖書にある譬え話には、朝から働こうが夕暮れ近くに来て働こうが、参加して働いたという意味では同じく1デナリがぶどう園の主人から労働者達に分け与えられている。わずかでも働けるということが尊いことなのである。

究極の社会主義国

 しかしまあ、究極の意味での社会主義国(私財を収奪し保有を許さない体制)じゃないのか、投資を勧めるいまのこの国は。


2024/07/15 ここまで

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