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幽世を写す―秋と北海道④

常世(とこよ)、かくりよ(隠世、幽世)とは、永久に変わらない神域。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされる。「永久」を意味し、古くは「常夜」とも表記した。日本神話や古神道や神道の重要な二律する世界観の一方であり、対義語として「現世(うつしよ)」がある。

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秋のキャンプは良い。慣れたキャンパーしかいないので静かだし、何より虫が少ない。少々寒いのが難点だが、まぁ対策など幾らでもしようがある。
ただ別にキャンプに行って何をするわけでもない。昼間から酒を飲んで飯を食って寝るだけだ。
何が楽しいかと言われれば正直楽しい訳では無い。個人的にキャンプは“何もしない”をしにいく行事だと思っている。何かをしにいくのではなく、何もしたくないから、キャンプに行っている。少なくとも自分はそうだ。
酒と飯と寝床以外、他の全ては余剰であり贅肉だ。荷物は少なければ少ないほど良い。カメラも邪魔だと感じるが、今回は特別それが目的なので置いていくわけにもいかない。

ともかくキャンプに行ってきた。
芦別市にある滝里湖オートキャンプ場。
そこそこのお値段はするが、その分の価値はある、非常に快適なキャンプ場だった。

結局使わなかったが全てのカーサイトに電源があるし、トイレも綺麗だった。明かりも多く夜も安心ではなかろうか。車が近いので、荷運びも楽。
まぁ今回はそれが本題ではないので、これくらいにしておく。ただかなり楽だったので初心者キャンパーにオススメ。ごみの分別だけはちゃんとするように。来たときより綺麗が何事も基本だ。

さて今回は秋の写真を撮りに行くのが主題なので、まぁ写真を撮るわけではあるが。

問題発生である。
緩い。
いや大体いつも緩くはあるのだが、今回は特別緩い。
絞りが効かない。今回はキャンプだし景色を撮りに行くのだから広角を持っていこうと思い、張り切ってNikkor28mmf2を装着して来たわけであるが。
絞りが効かないのである。絞りが効かないということは開放で撮るしか無い訳で、結果的にそれはそれは緩くなる。今回は特に広角のオールドレンズの割に明るいレンズなので、特別緩い。
まぁこれはこれで別に良いか、と思いあまり深く考えずにバシャバシャと節操なく撮った。撮れないより撮れたほうが全然良い。絞った方がいいと判断した所で、それが良い写真になるかどうかは分からないわけだから、結局どっちでも良いのかもしれない。
風景だから絞って広角というのも常識であるが、それに拘った所で結局どこかで見たような写真が量産されるだけだ。常識を無視するのもどうかと思うが、囚われ過ぎも良くない。
絞りが効かないのは故障だと思っていたが、全部終わって家に帰った後、よくよく見てみるとマウントアダプター側に絞りリングがあり、そっちを弄らないと絞りが効かないということになっていた。全くもって間抜けな話である。
馬鹿臭い話であるが、まぁそこそこ面白い写真が撮れたので良しとする。

結構マイナーなレンズだが幾つかレビューを見ると、面白い表現があった。

あの世とこの世の境を写す AI Nikkor 28mm F2S

Hiro.K

F2Sはこのレンズの後継モデルと思われるので(この辺よく分からないが…)、F2Sがあの世この世の境界を写すのであれば、それより前のモデルであるこのレンズはあの世を写すのであろう。
常世から現世へ。オールドと現代レンズからそういう対比が出てくるのはなかなか詩的だ。
シチュエーションも良かった。快晴ではなく曇り、翌朝は雨だ。相変わらず雨男である。

シチュエーションも相まってか、とにかく写らない。
周辺減光と遠景の写らなさが、どこか遠くを彷彿させる。四隅は流れ、細部はボケ、光は滲み、確かに現世とは思えない。
現代レンズが最新の光学技術を用いて眼の前の全てを切り取るレンズであるのならば、このレンズは写らないモノを切り取るレンズである。
写らなくて良いモノ、写ってはいけないモノ、収差やフリンジなど現代では不要と断ぜられた何かが情的に写っている。
レンズというものは、カメラというものは、写りが全てだ。自分もそう思う。ファインダーで覗いた全てを不足なく切り取る。それが全てであり、理想であり、メーカーもユーザーもそれをずっと追い求めている。
上がり続ける画素数、広がり続けるダイナミックレンジ、どんなに暗所でも撮れる感度、一瞬で合焦するオートフォーカス。解像度は高く四隅まですっきり写るレンズを求め、メーカーはその技術を駆使し続ける。
それが正しい。それが正道だ。
だから皆毎年のようにカメラを買い替え、レンズを買い、メーカーはその期待に答えるべく技術を駆使し、高騰し続ける値段の機材を作り続ける。
置き去りになった、何十年も前のオールドレンズを使うということは写らないということを求めるということで、つまりは写真家としては矛盾している。
メーカーに追随し続けるのが正道だ。明るい道だ。幾ら写真は機材ではないと宣った所で、結局それが正解だと、SNSやプロのフォトグラファーが証明している。だって何だかんだ言って、皆仕事では大三元レンズとか使ってるじゃない。新しい高いレンズをさ。
古いカビ臭いレンズをわざわざ使っているのは邪道か遊びか、あるいは自己、スタイルが相当確立され評価されている、例えば森山大道のようなアーティストよりの人達だ(でも少ないよね。やっぱり皆新しいカメラとレンズを使っている。自分の視野が狭すぎるだけ?)
いや、だからそれが何だって言う話ではなく、まぁ自分はお金が無いからオールドレンズを使っている訳だけれども。買えるならGMレンズとか欲しい。
ただ、そういう時代に忘れられたレンズにこそ描写できる何かがあるということを自分は言いたいのだ。
それはきっとコンテストで賞を撮れるような、仕事でお金がもらえるような、立派なものではないのだろうけど。
確かにそこに写っている。

絞り気味の絵が好きな自分にとって、開きっぱなしというのはあまり歓迎したくない事態ではあるのだが、このレンズに関しては開放でも許せる何かがある。
それは、この幽玄を写すかのような、オンリーワンの情緒があるからだろう。このレンズでしか写せない絵、そういう決してナンバーワンとしては評価されないが。
他では真似できない唯一無二の個性というものに僕は惹かれるのだ。

結局紅葉はほぼ撮らず、自分好みの暗い写真ばかりになってしまった。
ただ秋らしさは無いが自分らしさは少し感じられるようになってきた。
もうちょっと秋らしく、自分らしくと歩み寄れないかと思うが、まだまだ技術不足、初心者なんだろう。
ただ楽しかった。
今後、このレンズでこんな開きっぱなしの絵を撮ることは無いだろう。
だが、忘れっぽい自分でも、この一泊二日のキャンプの事はしばらく覚えていると思う。

――ファインダー越しで幽世を覗いた、この光景を。


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