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「人それぞれ」

大学1年生の夏休みも佳境に入り、ふと振り返ってみると自分の思い描いていた大学生の夏休みとは程遠いものでした。本来は部活を頑張ろう!と息巻いていましたが、部活はコロナで制限されてしまい夏休み中の活動は2日ほどです。夏休み中に掲げた目標もほぼ未達成のまま。なにやってんねん。と言いたくなるような生活でした。あと夏休みも2週間ほど。ここから巻き返すぞ!と思い、このnoteを書いています。


そんなこんなで夏休みを終えようとしている僕ですが、前期の授業の中で「哲学の基礎」という授業がありました。そこで、「人それぞれ」という言葉に焦点が当てられました。

「人それぞれ」という言葉は、「多様性を認めよう」という一見前向きな印象で世間一般では捉えられています。

例えば、「どんな人を好きになるかは人それぞれだ。」「価値観は人それぞれだ。」という使われ方です。

言葉の使い方としては、なんらおかしくありません。

しかし、実はその中には

自分とは異なるものを理解しようとせずに切り捨てる態度を含んでいる

と先生は述べていました。

相手と深くわかり合う事や議論することを避けているということです。

例えば、熱が出たときに「病院に行く」or「神社に行く」。どちらが正しいかは明らかです。物事には少なからず正しい判断というものは存在しています。それを「人それぞれ」と言うと、極端に言えばルールも規制もなくなってしまうでしょう。

「人それぞれ」という言葉を使えばどんな議論も中途半端な結果で終わることに繋がります。本来議論というのは

「お互いに意見を出し合って、考えをすり合わせることで理解を深め、物事を解決の方向に導く手段

です。

議論という言葉を使っていますが、私たちは日頃から議論とまではいかなくても似たような行動は友達同士でもよくしているでしょう。

友達に自分の好きなもの(例えばアイドルや漫画)の良さを一生懸命伝えようとしているのに、突然「まあ何を好きになるかは人それぞれやから。」という風に会話を断ち切られるとどんな気分になるでしょうか。一方で相槌を打ちながら、「一番面白いシーン教えて!」「だれが一番可愛い?」という風に興味をもって聞いてくれると話す立場からするとどれだけ嬉しいことでしょうか。

このように「人それぞれ」という言葉は会話の流れを断ち切る魔法の言葉であると言えます。

一方で、どんな議論や課題においても「人それぞれ」という価値観は確かに存在しています。「人それぞれ」という言葉を使うな!というわけではありません。僕が言いたいことは、「人それぞれ」という言葉をむやみやたらと使うことに警鐘を鳴らしたいのです。

人それぞれに価値観や個性は違っています。それを認めようとすることは確かに素晴らしいことです。しかし、思考停止して何でもかんでも詭弁のように「人それぞれ」を濫用することは間違っています。

僕たちは意見の違う相手のことを、「人それぞれ」と思考を放棄するのではなく、「何故そのような考えに至ったのか」思考を巡らせ、異なる視点から考えるという態度が必要であると思います。この相手の意見を理解しようという態度こそが「多様性を認める」ということに繋がるのではないでしょうか。

しっかりと然るべきタイミングで使えば素晴らしい言葉です。

これを読んでどんな感想を抱くかどうかは
「人それぞれ」です。


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