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01 さよなら、僕の平和な日々よ

 その日、僕は合気道の道場に顔を出していた。ろくに部活動をしていない僕こと、柿本良一だが、幼い頃から習っている合気道だけは今も欠かさず顔を出していた。
 中学までは空手も習っていたのだが、その頃から自宅兼店舗となっているアンティーク・ショップの、店番を頼まれることが多々あり、どちらかを辞める事にしたのだ。そこで僕は合気道を続けることにして、空手を辞めることにしたのだった。
 空手はどうしても攻撃手な技が多い。中学の頃、迷惑な先輩たちに呼び出され、乱闘の末に全員叩きのめした手前、これ以上の技を修得しなくてもいいやと考えたのだ。僕はいつだって平和主義者だ。事なかれ主義だと思う? 素晴らしい考えじゃないか。僕は少し平凡で、退屈で、当たり前の日常生活を送れればそれでいいんだ。なんて慎ましやかな考えなんだろう。昨今の高校生とは思えないほど、質素で控えめじゃないか。
 ともかく、高校進学を機に、僕は空手を辞めた。そしてどちらかというと、相手の攻撃をいなす技が主流となる、合気道を続けることにした。
 長年やってきていることなので、考えずとも体は動く。また逆に言うと、何も考えられなくなるまで体を動かすことで、日頃の鬱屈したストレスが、吐き出されていくような感覚だった。
 やっぱり体を動かすのは好きだな。そんな思いをかみ締めながら、久しぶりにもみくちゃにされて、気分がすっきりする程度には体は暖まった頃、道場の真ん中から悲鳴が上がった。
「おい、良一。こいつらの相手してくれぇ」
 今にも死にそうな声で僕に助けを求めたのは、この道場の師範・ 小柳龍千師匠の長男の 小柳龍治さんだ。
 龍治さんは普段は大学生であるが、今日は師範の代わりにちびっ子の面倒を見ている。
 見れば龍治さんはそのちびっ子たちに、押しつぶされていた。
「うっス。おいこら、チビども。降りろよ」
 相手はまだ小学校に通っていない程度の幼稚園児と、小学二年までのちびっ子たちだ。
 僕は子供たちの腕を掴むと、千切っては投げ千切っては投げ……なんてしたら、さすがに怪我をさせてしまうので、適度に引きはがす。
 だが、ちびっ子はそんな僕と龍治さんに、遊んでもらっていると勘違いしているらしく、奇声をあげては龍治さんにまたがる。子供たちに怪我をさせるわけにもいかず、差ほどの抵抗も出来ない龍治さんは防戦一方だ。
「いいかげんにしろって」
 僕は適当に引きはがしたあと、脇腹をくすぐってちびっ子たちを悶えさせた。子供たちの笑い声が、道場に響き渡る。僕のくすぐりの魔の手から、仲間を救出しようと駆けつける子に飛びついて、更に僕はくすぐり攻撃で子供たちを笑わせた。
 ようやく勝機を見出した龍治さんは、ここぞとばかりに起き上がり、胴着の襟を正した。
 僕は何人かのちびっ子たちをくすぐっては悶絶させていたが、攻撃目標が龍治さんから僕に逸れたために、突然後頭部に激しい衝撃をくらい潰された。
「いでぇっ!」
 子供ってどうしてこう、容赦がないのだろう? 大人は絶対的な頑丈な生き物だと思っているのか、全力で体当たりをしてくるし、蹴るし、しがみ付く。
 不意打ちだと、大人でも涙目になるほど痛いんだぞ、チビどもよ。
 とっさに床に手をついたはいいが、後頭部にのしかかる重さに負けた。だって次から次へと圧し掛かってくるんだもん。とうとう重さに負けた僕は顎を強打し、思い切り唇をかんだ。
 口の中に血の味が広がる。
 いいかげんにしやがれ、ガキどもよ? 僕は龍治さんほど、優しくはないんだぞ?
「どけってば!」
 僕は龍治さん程ちびっ子には優しくないので、遠慮なく立ち上がった。
 僕の背後に圧し掛かってはいたものの、何にも捕まっていないチビどもは、立ち上がる僕の背からゴロゴロと転げ落ちるが、それにすら甲高い声で笑っていた。
「ぐぇっ!」
 しかし執念深いチビの一人が僕の首にしがみ付いていて、危うく絞められそうになる。僕は腕を掴んで手を引き剥がした。
「離せってば!」
 そしてやっと最期の一人を払いのける。振り下ろされたにもかかわらず、その子は床に転がりけらけらと笑い転げていた。
 まったく、最近のガキはタチが悪い。
 うぅ……口の中いっぱいに広がる血の味は何ともしがたい。僕は思わず眉を潜めた。まずいなぁ、今日は酸味のあるものは避けないと。
「うお、良一、血!」
 龍治さんの視線が僕に向けられた。龍治さんの表情には軽い驚愕の色が浮かんでいた。
 唇の内側を噛んだのだと思っていたのだが、それだけではなかったようだ。
「痛いっス……」
 ぐいっと口もとを拭ってみれば、手の甲に血のぬるりとした感触。痛みに顔をしかめて周囲を見回せば、ちびっ子は戦々恐々とした顔で一歩引いている。
 誰のせいだっちゅうの。
「おまえさぁ……国体とか、やっぱり興味ないわけ?」
 実は今までに空手の方で何度かお誘いはあったのだが、僕はそのいずれも断っていた。
 だが僕は高校で部活動をしているでもなく、またそう熱心に打ち込んでいるわけでもないので、そのお誘いは断ってきた。さすがに空手を辞めて二年。体は今も型を覚えているし動くけれど、そのお誘いはもう来ない。ただし、辞めて半年の間は「道場に戻らないか?」という説得は受けていた。故障を理由に辞めたわけでもなく、不祥事を起こしたわけでもない。ただなんとなく辞めたという理由は、道場にしてみれば受け入れ難い理由だったようだ。一応黒帯の三段だったし。
 ちなみに空手は五段。つまり中堅どころってやつ? うちの流派は初段から八段まである。他の流派では切紙・目録・免許・皆伝の四種類や、切紙を除く三種類など、空手にも色々ある。
 自分で言うのもなんだけど、僕はそこそこに器用だ。ただ昔から、本気で夢中になって打ち込めない癖があった。いつも本気になる寸前にブレーキがかかってしまう。無意識に最後の最後に躊躇してしまう癖があった。
 最近、特にそれを自覚していた。

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