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28 僕の平和が遠ざかる

 洗顔を終えて、顔を上げる。覗き込んだ鏡の向こうには、げっそりとした表情の僕がいる。腫れぼったい目の下には寝不足を現す隈がある。
「あーあ……」
 毎朝のジョギングの習慣で、ジューンより先に目を覚ました僕は、洗面所で自分の顔を見てため息をついた。
 ジューンも相当寝つけないのか、何度も何度も寝返りを打っていたようだが、僕は一睡もしていなかった。
 だってさぁ?
 色々あって神経が過敏になっているのもそうだけど、若い女の子と二人きりだよ? いかがわしいことをしようとは思わなかったけど、いかがわしいことを目的とする部屋で、意識しないようにすればするほど……ま、みなまでは言うまい。僕も健康な男子高校生だということで。
 おかげで僕は一睡もせずに起きていた。それでも眠ろうと努力して目は閉じていたのだが、このひどい有様だ。
 ま、僕の顔色なんてそう重要ではない。もちろん、気にはなるけど今日さえ乗り切れれば、あとは時間が解決してくれる。
 顔を洗ったあと、僕は歯を磨くことにした。こうでもしてないと、退屈に耐えられそうになかった。口の中に広がるミントの味。味覚は爽やかでも、僕の心を爽やかにはしてくれそうにない。
 僕が起きている気配に気付いたのか、控えめにドアがノックされた。ジューンも起きたのだろう。
「ふぁーい」
 もごもごとしながら返事をすると、ためらいがちにドアが開いた。ドアの向こうのジューンも、あまり眠れなかったのだろう。そんな表情をしていた。
「おふぁおー」
 あくまでも歯ブラシを動かしたままでなので、日本語にすらなっていない状態で言うと、ジューンは少しだけ微笑んだ。
「おはよう、良一」
 ジューンは二・三歩足を踏み入れ、僕の顔の隈に気づいたようだ。僕は鏡を見るようにして、ジューンから顔を逸らした。
「良一……眠っていないの?」
「くぅあんが………考え事していたら夜が明けちゃったよ」
 一度歯ブラシを口から出してそう言うと、僕はうがいをして口の中を水ですすぐことにした。馬鹿正直に言うわけにもいかない……それに、それ以外にも今日のことなどを考えていたのも事実だ。
「今日も一日がんばろうね」
 二泊三日のガイド兼ボディーガード。二泊を終えた今日は三日目。ここが正念場というやつだ。
「えぇ……良一、体調は? 平気?」
「大丈夫だよ。これでも体は鍛えている方だからね」
「そう……頼りにしているわ」
「まかせて」
 なんてちょっと格好つけたかな? でもここで頼りない返事をするわけにもいかないだろうし。
 僕が歯磨きを完全に終えると、その場はジューンに譲って、僕は室内に戻った。それから、テレビをつけた。テレビでは朝のワイドショーがはいっていた。
 何ともなしにそれを見ていた。テレビでは某産業メーカーが、コスト削減のために日本市場を撤退し、生産の基盤を中国へ移行するという情報を伝えていた。
「……?」
 僕は別にその情報に興味はない。どうなろうと僕の生活に変わりはないし、人件費を削減した結果、電化製品が日本の市場で安く売られるなら、それにこしたことはない。
 だが今ふいに何かが頭をかすめた。
「あっ……」
 そうだ……あれだ……
 僕は携帯電話を手にした。だが充電のマークが一つ減っている。今日はいつ連絡できるかわからないが、必要とするとき連絡できないと、僕が困るだろう。
「そうか……」
 寝不足の頭の中に、徐々に考えがまとまりはじめる。僕はソファーに腰をおろし、携帯電話の画面を見つめたまま、思考に没頭した。
 天才科学者であるジューンは、世界に先駆けて超小型AIチップの開発に成功した。まだ改良の余地はあるものの、現段階では機械産業に大きな影響を与えるものとなる。だが発表を前に、諜報活動に利用を目論むCIAに目をつけられた。CIAは表向きの開発者であるジューンのお兄さんを、チップごと引き込もうとした。一度世間に出回ってしまえば、他国も興味を示すのは必須だし、それに世間に出回る頃になれば、改良が加わり、諜報活動に利用できる製品に、作り替えることが困難になるからだ。
 だからこそジューンは、それを潔しとしなかった。ジューンはあくまでも医療や工業の分野に役立てたかった。だからこそCIAから逃げ出した。CIAの圧力を持ってすれば、地元警察である州警察、そして連邦警察、つまりFBIも屈する可能性が高い。だからジューンとジューンのお兄さんは、司法機関を頼らず、それぞれ国外へと逃げた。
 そしてジューンは知人であり、かつて美佐子さんに助けてもらったことのある、ジェームズという人物から、美佐子さんのことを知る。そしてこの困難な逃亡に手を貸して欲しいと依頼をした。
 ここからだ。
 まず、美佐子さんは依頼を受けているが、依頼金を受け取ってはいない。それなのにジューンのために、というか、僕の生活費込みで、五十万という大金を使わせてくれる。
 それはなぜか?
 ジューンには今、現金を支払う能力がない。例え資産があったとしても、海外の銀行から引き出し、日本の銀行へ振り込むことができるほど、時間的な余裕がない。それに資産がある証明ができない。
 だが問題のAIチップが軌道に乗ればどうだろう?
 もちろん収入は入る。現金後払いということになるけれど。
 さて、ここからが本題。相手が大きな権力のあるCIAとはいえ、ここは日本国内。その権力は効力を発揮できない。しかし日本の警察が影響力を与えることもできないはず。
 だってジューンは犯罪者じゃない。向こうだって犯罪者じゃない。まぁ、あのごついナイフで脅しているんだから、恐喝やら傷害にはなるけどね。
 そして田崎さん。いくら国際捜査課の刑事とはいえ、逆に国内では捜査権限はない。それなのに今回、田崎さんが関わろうとしている。いくら田崎一族が、財政界や警察界に広い権力を有していても、田崎さん一人の力は微々たるものだ。
 しかし。
 もしも、ジューンの開発したAIチップのスポンサーが、田崎一族の息のかかった企業になったらどうだろう?
 ジューンはあくまでも、研究の発表はマサチューセッツのボストンにある、MITで行うとは言っているが、スポンサーが海外企業だからと断るはずがない。
 ましてやジューンの祖母の国である日本なら、断ったりはしないだろうし、今回田崎一族の力を借りていれば、断ることができない。
「ちぇー……美佐子さんは、そこまで考えて田崎さんを利用したのかぁ」
 田崎さんにはそう悪い話しではない。本人は出世にそう興味はないなんて言っているけど、それでも名ある一族に名を連ねているのだ。一族の権力を利用する代わりに、その先の利潤を一族に差し出すことになる。
「まいったなぁ……」
 美佐子さんは田崎さんを利用し、田崎さんは一族の権力を利用し、田崎さんの一族はジューンの研究成果を利潤として利用できる。
 それでもって美佐子さんに利用された僕は、まったく割に合わないってわけだ。
 ジューンはそのことについて知っているのかな?

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