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12 幻想夜話

 だが同時にここは質屋なのだから当然の成り行きなのだとも納得する。
 しかし財布も持たずに飛び出した。どうやってここにたどり着いたのか覚えてはいない。
 さて、どうしたものだろうと頭を悩ます。今、零斗が持っているものは、一の糸が切れたままの津軽三味線と撥だけだ。
「財布は持ってきていない」
 素直にそれを口にするとユメは一層目を細めて笑った。
「そんな無粋なものなんていらないよ」
 そう言ってユメは零斗を指差した。正確には零斗が持つ津軽三味線を。
「一曲弾いておくれ。今のあんたが出来る曲を弾いて聞かせておくれよ」
「でも弦が切れているんだ。一の糸がない」
「おや、そうなのかい? あたしにはそうは見えないけど」
「え?」
 不思議そうに首をかしげるユメにつられて、零斗も自分が持っていた津軽三味線に視線を写す。
「!」
 確かにあのコンクールで一の糸は切れた。演奏続行は不可能となり、零斗は棄権することを告げたはずだ。
 控え室に戻ったあと、弦の張替えは行っていない。
 だから切れたままでなければならなかった。
 だが今の零斗が手にした津軽三味線は、きちんと一の糸が張られていた。
「弾けるだろう?」
 ユメが紫色の瞳を細めて、にぃっと笑った。
 そして唐突に零斗はわかったような気がした。
 ここは質屋・夢。質に入れられるものは「特別な物」ばかりで、そして夢と 現(うつつ)の狭間にあるようなこの店の中では、何が起きても不思議ではないのだろう。
 驚いていた零斗だったが、慈しむように一の糸に触れる。夢の中で現の演奏をしよう。
 師匠の音を取り戻すために。激しい焦燥の中、それでも愛する音に恋い焦がれながら。
「そうだね……いいよ、弾こう。曲は津軽じょんがら節を」
 津軽じょんがら節は、新旧合わせると様々な歌詞があり、軽快な音とリズムから、明るく楽しい曲のようにも聞こえる。そのため最近のものでは、明るい歌詞が好まれる傾向にある。
 しかしこの歌はやはり鎮魂歌。
 旧城主の位牌を背負い、 上河原じょんかわらに身を投げた僧侶の魂へ捧げられたものなのだ。
 零斗は板の間に腰を下ろして目を閉じた。撥を構え、すっと三本の糸があることを指先だけで感じ取る。
 津軽じょんがら節が鎮魂歌ならば、零斗は春に亡くなった師匠へ、その曲を捧げようと思った。きっと師匠はどれ程の演奏をしても、よかったということはないだろう。
 生粋の津軽衆。頑固で無口でぶっきらぼうな人だけれど、それでも懐が深くて情に厚い人だった。弟子は取らないと頑なだったのに、毎日毎日通い詰める零斗に根負けしたのか、しまいには自宅に上げてくれたし、練習用の音のよくない三味線を抱えた自分に「弾いでみろ」とそっけなく言うような人だった。
 タン、テン・テン・トテテン、テンテンテンテンテンテン……
 あぁ、覚えている。師匠の音を初めて聞いた日を。音が圧倒的だった。魂に直接響く音だった。津軽三味線のことなどまったく知らない自分が、その音の洪水に飲まれ翻弄され、ただただ圧倒された。魂から魅せられた音だった。
 タンタンタンタン、タンタンタンタン、タンタンタタタン、タタタントンテン……
 自分も弾いてみたいとそう思ったのだ。その時の曲もこの津軽じょんがら節だった。
 練習用の三味線を手にしたときは嬉しかった。しかし全然思っていた音が出なくて、うまく弾けないことよりも、師匠のような研ぎ澄まされた音を響かせることが出来ないことが悔しかった。
 今では確かに楽譜がある。それでも師匠は楽譜を使う人ではなかったので、師匠の元で習った音はすべて耳で聞いた奏法であり、口下手な師匠が「 そいだばまいね(それではだめだ)」とぼそりと言っては注意を繰り返し、ひたすら弾き続けて習得したものだった。
 タンタタタン、タタタタタタタタン、タタタタタタタタン、タン、タタタタタン……
 音の向こうに何を見るのか?
 この楽曲が作られた背景には、刀と刀がぶつかり合う戦があり、多くの血が流され、多くの命が奪われ、住み慣れた土地を蹂躙され、灰燼と帰した日々があった。戦う術を持たぬ者たちはただひたすらに、その嵐のような戦が過ぎ去るのをじっと待ち望んでいたのだろう。
 やがて戦は終われども、その地に残されたものは屍と灰だけであり、城主すらも失われた。
 守れなかったことが辛かった。
 無力であったことが悲しかった。慈しんできた大地は汚された。
 見よ、一面に広がるは血に濡れた不浄。
 あぁ、悲しい。命をかけて守ろうとしたものは、一体なんだったのか?
 そんな僧侶の嘆きと悲しみ、そして絶望を抱いて津軽平野を流れる冷たい川へと身を投げる。
 残された村人は、戦が行われている間は、ひたすら怯え、そして戦が過ぎ去った後は、それでも生きていくしかない。
 僧侶のように、殉じるように彼岸へ向かうことは出来なかった。なぜなら家族がいる。残された命は次代へと紡がれていかなければならないのだ。だからやがて来る厳しい冬に備えて、灰燼となった大地を耕さねばならなかった。
 だからどうか、どうか。
 この地に散った幾多の御霊、そして上河原に沈んだ御霊を持ってして鎮まれ。
 そうして生まれた楽曲だった。
 そして零斗は今師匠に語りかける。あなたの音はあまりにも偉大すぎて、そして遠い。いつかその高みにたどり着くことが出来るのだろうか? それとも別の答えに辿り着くのだろうか? 
 理想とする場所がどんな場所となろうとも、それでも変わらないものがある。師匠の津軽三味線の音を生涯愛するだろうという事。
 そんな思いを込めて弾いた。
 三分弱の楽曲は気付いたら終わっていた。パンパンパン、と乾いた拍手の音に気付いて振り返れば、肩に漆黒の小鳥を乗せた質屋の女主人が、目を細めて笑っていた。
「ありがとう、いい音だった」
 手のひらに津軽塗りとなった撥を乗せて、ふっと息を吹きかけると、それは光る金砂となって崩れていく。そして崩れながら吐息に乗ったそれは、零斗を包み込むようにしてまとわりつき、そして静かに消えていった。
 それと同時に師匠の演奏を思い出した。
 あの日、師匠の音に囚われた自分の心も共に。
 唐突に涙が溢れた。師匠、ごめんなさい。一瞬でも忘れたいと思ったことを、亡き師匠に謝罪する。『 もつけこの(愚か者め)』、そんな声が聞こえた気がした。
 零斗は立ち上がり、ユメに頭を下げた。するとユメは驚いたように目を見張った。
「やだよ、頭を上げなさいな。頭を下げられるようなことはしちゃいないよ?」
「そうしたかったんだ。師匠の音の記憶を返してくれて、ありがとう」
 そう言うと、ユメはふっと目を細めて笑った。
「まぁ、そういうことならいいけど。どうする、上がっていくかい?」
 ユメは囲炉裏端を指差した。シュンシュンと、鉄瓶からは湯気が上がっている。お茶を飲んでいくのかと誘ってくれたのだろう。しかし零斗は首を振った。
「行かなきゃならない場所と、会って謝らないといけない人がいるから」
 沙織に謝ろう。すぐにそう思った。いい加減な演奏をして、上の空だった。沙織はそんな自分を心配してくれていたのだから。
「そうかい。じゃ、お行きなさいな」
 ユメは入り口を指差した。零斗は頷き、歩き出した。戸に手をかけて開いた。溢れる陽光に目が眩む。
「ありがとう」
 背を向けたままで呟いた。
「あいよ、まいどあり」
 振り返ることなく、ユメの声を聞いて歩みだす。
 喧騒さ溢れる街並みにどこかほっとする。いったいどこだろうと一瞬思ったけれど、ここはコンクール会場近くの公園だ。午後からの舞台を控えてか、演奏の練習をする演奏家たちもちらほらと見受けられる。
 振り返ろうとは思わなかった。こんな場所に店があるわけがない。
 あれは夢。
 夢と 現(うつつ)の狭間に位置する店は、きっとどこにでもあってどこにもない。
 夢から帰ってきたのだから、現実に向かって歩みだすしかない。手始めにできることはこれから沙織に会いに行くことだった。


 番頭台の前に座り、ユメは煙管を燻らせた。ふぅっと紫煙を吐きながら、空いた手に乗せた漆黒の小鳥に視線を合わせる。
「商品が一つ減っちゃったねぇ? でもまぁ、あんな演奏をされたんじゃ、返さないわけにはいかないよ。そうだろう、クロガネ?」
 口ばしの赤い黒い小鳥は、まるで「そうだね」と返事をするように、ピッと鳴いた。

幻想夜話 ―完―

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