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35 さよなら、僕の平和な日々よ

「誰?」
「誰に向かってそんな口聞いているのよ?」
 こんな憎まれ口叩くのは美佐子さんしかいない。僕はドアのロックを外してドアを開けた。
「ほら、ご褒美よ」
 美佐子さんが僕に手渡した物は、コンビニの白いビニールに入った食料だ。見た途端に猛烈に腹が減ってきた。そうだ、僕夕飯も食べてないんだった。
「珍しく気が利くじゃん」
 つい本音を漏らしたのは、疲労で僕の注意力が散漫になっていたせい。おかげで後頭部を叩かれた。
「ったいな!」
 後頭部を押さえて振り返る。美佐子さんは不機嫌そうだ。
「いいから中に入りなさい」
 僕が中に入ると、美佐子さんに続いて入る人影。大林さんだ。僕と美佐子さんのやり取りを見て笑っていた。
「仲がいいのね」
「本当にそう見えているんですか?」
 僕がそう切り返すと、大林さんはおかしそうに笑った。
 ベッドに座っていた稲元の隣に座ると、僕はコンビニの袋に入っているものを広げた。コーラが二本あったので、稲元に一本渡す。ふと視線を感じて稲元を見ると、じぃぃぃっと探るような目で僕を見ていた。今の会話をしっかりと聞いていたらしい……
「まずは稲元君が無事でよかったわ。稲元君のお母さんは、同じホテルにいらっしゃるわ。まだ連絡をしていないのは、君に説明をしていないから。説明を終えたら会わせてあげるわね」
 美佐子さんはそう言ってソファーに座った。大林さんは壁に背を預けて立っていた。僕はそれに構わずに、サンドイッチに手を伸ばした。
「食えよ、稲元。食っていたって話しは聞ける」
「あ、あぁ……」
 僕はコーラで喉を潤したあと、さっそくサンドイッチを頬ばった。
 うまい……サンドイッチって、こんなにうまいものだったんだ……
 僕がサンドイッチに舌鼓を打っていると、唐突に大林さんが話し出した。
「今度の事件はね、あなたの離婚した父方のお祖父さん、山根源十郎さんが、ある政治家の左翼団体への収賄事件を告発しようとしたことから始まっているの。それだけを見れば正義感のある政治家だと好感の持てる話しだけどね、その左翼団体の背後にある組織が、重要なのよ。事件に巻き込まれた当事者である稲元君に、正直にすべてを話せないのは心苦しいところだけど、事は日本国政府に関わるところまで発展してしまっているの。この事件は世間では起こっていない事件になってもらうわ。つまり、忘れて欲しいの。忘れることが無理なのは承知しているわ。だから口外せずに、忘れたことにしてくれればいいの」
「あ……なんで、俺を誘拐したんですか?」
「それはね、あなたが山根さんのお孫さんだからよ。そしてあなたの離婚したお父様一家は、昨夜事故にあわれたわ」
「なっ!」
 なんだって……! なるほど……身内に危険が迫っていることを知り、それで離婚してしまったとはいえ、孫の稲元のことも心配になりだしたってわけか。
「命には別状はないわ。でもそのことで山根さんは孫であるあなたが心配になり、どこかへ逃がすことにしたの。彼女がその手はずを整えていた矢先に、犯人たちが先に動いてしまったというわけ」
「そうだったんですか……あなたたちは、警察の人ですか?」
 稲元の問いに、大林さんは曖昧に頷いた。
「そうね……」
 それ以上の説明はなかった。まぁ、ここで詳しく語る必要はない。それに内調と言われるよりも、警察と言われた方が稲元も安心できるだろうし。
「じゃあ、あの人は?」
 稲本の視線は美佐子さんへ。美佐子さんは微笑みを浮かべる。
「あたしはセットフリーターよ。国内外どこへでも、対象者を逃がすのが専門の職業なの。美佐子って呼んで」
 にっこりと魅惑の微笑み。稲元の頬が赤くなる。
 馬鹿だな、稲元……あの人の息子はおまえの隣でサンドイッチ食っているんだぞ?
「そういう職業もあるんですか?」
「あるわよ。ただ、内緒にしていてね?」
 なるほど、美佐子さんはこの微笑みで男を籠絡してきたのか。稲元は真っ赤になって力強く頷いた。
「お、おい。柿本、おまえもだぞ」
「はいはい」
 僕が言いふらしてどうすんの。僕は必死で隠そうとしているんだからね。
 しかし僕の気のないない返事は、美佐子さんに籠絡された稲元には気に入らなかったらしい。
「ちゃんと聞いているのか?」
「聞いているよ。それより、食わないのか? 食わないなら、これ食っていい?」
 アンパンと焼きそばロールとクリームパン、低糖ヨーグルトが二つ残っている。僕は焼きそばロールに手を伸ばした。
「柿本……おまえ女嫌いか? あんな美人の人の頼みが聞けないなんて、男として何か欠陥があるような………」
「ぐふぅっ!」
 それに対して、危うく吹き出しかけた。焼きそばが鼻穴から出てくるところだった。僕は何度か咳き込んだ。
「勘弁してくれよ、稲元……」
「あら稲元君ったら正直ね! 美人だなんて。そうよねぇ、良一は男として欠陥があるかもしれないわね」
「あるとしたら美佐子さんに対してだけだよ」
「まぁ、憎らしい子ね」
 誰かさんに似た影響されたみたいだからね。
 すると稲元は再び思いかけないことを口にした。
「あの……柿本と親しそうですけど、どういう関係なんですか?」
 まだ食い下がるのが!
 僕が戦々恐々とした気分を味わっているとも知らず、美佐子さんはあっけらかんと真実を口にした。
「親子」
「へー、親……親子ぉ!」
 言った……言っちゃったよ! 馬鹿ぁ! 美佐子さんの馬鹿ぁ! 稲元の驚愕の視線が僕と美佐子さんの交互に注がれていた。
 もー……どうすんだよぉ………

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