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36 さよなら、僕の平和な日々よ

「だから言いたくなかったんだよ……」
 ぼそりと呟く僕の肩を、稲元が揺さぶった。僕は揺さぶられるままに、焼きそばロールに齧りついた。
「ど、どうして言わなかったんだよ!」
 稲元の視線が僕を責める。僕は視線の非難を受け止めたまま、ウンザリとしたように深い溜め息をもらした。
「言っただろ、三十過ぎていて高校生の子供がいるってさ……」
 僕は一気に疲れた。僕は動揺を隠せない稲元を無視して、焼きそばロールも平らげた。欲を言えばまだまだ食べられそうだったが、稲元も食ってないんだ。後はヨーグルトでも食べて終わらせよう。
「それに、自分の親が表立ってできない商売していますって、言えるか普通?」
 世の中のすべてが美佐子さんのように、ぶっ飛んだ 感性の持ち主でない限り言えやしない。
「かわいくない子」
 ふんだ、言っていろ。そう育てたのは美佐子さんなんだからね。
「さていいかしら?」
 それまで微笑ましげに見ていた大林さんが口を開いた。
「今度のことは誘拐未遂事件だった。犯人は警察につかまりました。これで納得してもらえるかしら?」
「わかりました」
 稲元は案外すんなりと納得してくれた。僕としては、おいそんな簡単でいいのか? とも思ったが、やはり離婚したとはいえ、祖父が代議士という家系だからか、それなりに考え方が一般人と違うのかもしれない。
「じゃあ、あたしは戻るわ。あとはよろしく、美佐子」
 大林さんが軽く手を上げた。美佐子さんも胸の前まで手を持ち上げると、軽く左右に振って見せた。
「OK。そっちは任せるわ」
「了解」
 美佐子さんとの短いやり取りの後、大林さんは出て行った。
 はぁ……僕の人生はこれからいったいどうなるんだろう。
「稲元君も少しでいいから食べなさい。それからお母さんのところに案内するわ」
「はいっ!」
 赤くなってやんの。やれやれ……
 そんな稲元を横目で見たあと、僕は美佐子さんを見た。そして思ったことを口にする。
「美佐子さん、僕もこのホテル泊まっていいの?」
 疲労困憊。腹ごしらえをしたら、余計に眠くなってきた。しかし美佐子さんは首を横に振った。
「だーめ。あんたは帰るのよ」
「僕、無茶苦茶眠いんだけど……」
「だめ」
「鬼」
「なんて口を聞いているのよ。聞いた、稲元君?」
 美佐子さんはそう言うと、稲元は僕に非難めいた視線を向けた。
 ん? なんだかこういう場面はよくあるような気が…………
「ひどいぞ、柿本。いくら親子でも言過ぎだ」
「そう思うわよね?」
 わかった……美佐子さんに求婚する信奉者たちと、似たようなリアクションなんだ。
 ということは稲元も……?
 勘弁してくれよ。
「もういい。帰る。今日は学校休むからね」
 学校へ行ったところで、きっと一時間目から力尽きて熟睡だ。たとえ先生に怒られようとも教科書で叩かれようとも、目を覚まさずに眠っていられる自信があるね。
「しょうがないわね」
「じゃあな、稲元」
 僕は座っていたベッドから立ち上がった。そうと決まったらとにかく早く家に帰って寝てやる。
「ちょっ、行くのか?」
 見下ろすと、ベッドに腰をかけた稲元が、サンドイッチを片手に不安そうに見上げてきた。
「帰っちゃ悪いのか?」
「だって……」
 さすがに美佐子さんと二人きりだと緊張するってことか。しかたない、もう少しだけいてやろう。僕は空いているもう一つのベッドに座りなおした。
「あー…疲れた……本当に眠い」
「だらしないわね」
 言うに事欠いてそれかい。僕は好き好んで手伝ったわけじゃないぞ。いわば僕は被害者だ。単に巻き込まれたに過ぎない。
 ところがそんな僕の内心を見抜いていたのか、眠気に襲われてぼんやりとしていた僕の隙を突いて、美佐子さんは悪魔の微笑みを浮かべて宣言した。
「稲元君、良一のことも内緒にしてくれる? 高校生で、こういう仕事しているから」
「ちょっ!」
 僕は慌てて美佐子さんを見た。美佐子さんは再び稲元に、魅惑的な微笑みを投げかけていた。
「もちろんです!」
 僕の意思はどこに行ったんだ。
「任せろ、柿本。絶対言わないからな」
 おまえの秘密は守るぜ!
 って、そんな顔するなよ。馬鹿……
 あぁ、もう好きにして。
 僕は抵抗する気力すらなくし、脱力してベッドに倒れ込んだのだった。

セット・フリーター2 ―完―

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