07 蘇芳
真夏の夜空に夏虫の声が響き渡る。
その声を初めて聞く者は、小さな虫の声の重なりを不気味に思うかもしれない。絶え間なく鳴く声は、数百、数千の虫たちの声と重なりあい、地の底から沸き立っているかのように錯覚する程だ。
紺色の空には金剛石のような光を放つ星が輝き、ただそれを見つめているだけで魅了されそうだった。
池のほとりには、淡い黄緑色の光を点滅させながら、蛍が乱舞するその様は、幻想的だがどこか、もの悲しい気分にさせる。
西園寺は提灯と手提げ盆を持ち、お気に入りの池のほとりまでやって来ると、夏虫たちは一斉に鳴くのをやめた。しかし西園寺が岩に腰かけ、提灯の明かりを消すと、再び夏虫たちは泣き出した。
「あぁ……きれいだ」
見渡せば空には満天の星、地上には蛍の乱舞。
真夜中のこの美しい光景は、四季の中でも夏のごく限られた期間しか見られない、貴重な光景だ。
西園寺は煙管を手に取ると、雁首に刻み煙草を詰めた。それから陶器で出来た火入れから、埋め火をそっと移す。
吸い口を唇に加えて、ゆったりと紫煙を吸い込むと、どこかぼんやりとした、また物憂げな表情を浮かべた。
静かに煙が吐き出される。
「あぁ……それはお仲間じゃあないよ?」
一匹の蛍が、人形師の手にする煙管へと向かって飛んできたのだ。人形師は雁首に着地する前に、自身の左手をそっと伸ばすと、人差し指に蛍は止まった。
蛍は西園寺の指に止まったまま、淡い光を点滅させる。
「ふふふ……危なかったね」
雁首の中の刻み煙草は燃えていて、西園寺が吸い込むたびに、煌々と朱色に燃える。それを仲間と勘違いしたらしい。
西園寺は目もとを和ませながら、再びゆるりと紫煙を吸い込む。
「おまえたちはたった一夜で恋をして、そして子孫を残すんだね……それに比べたら、人間はずいぶん緩慢に生きているのか、それともおまえたちがずいぶん生き急いでいるのかな?」
片眼鏡の人形師の問いに蛍が答えるはずもない。
「古より連綿と受け継がれた約束のように、おまえたちは一夜で命を燃やす。だからこそ美しいのだけれど」
西園寺の指から蛍が飛び立つ。他の蛍たちとすぐに交じり、それは見分けがつかなくなった。
西園寺は蛍の姿を目で追うこともなく、最後の一口をゆっくりと吸い込む。
どこか恍惚とした表情で、それをゆったりと味わうと、そろそろと紫煙を吐き出した。
ゆるやかな風が吹き、木々を揺らして夏草を揺らす。さらさらとしたその音が、なんとも涼しげで心地好い。紫煙はその風にさらわれて、瞬く間に消えていく。
どこか気だるい仕種で、灰吹きに煙管の雁首を寄せて、軽く叩いて灰を落とす。まるで蛍の終焉の瞬間のように、最後まで静かに燃えていた刻み煙草の朱色の火が、すっと消えて灰吹きの中に落ちいていく。
「もっと生きたいと願うこともなく、与えられた運命を享受して精一杯生きる様は、実に美しく、だからこそ感動を与える」
西園寺は再び雁首に刻み煙草を詰めると、先程同様に火入れからそっと埋め火を落とした。それからゆっくりと吸い込み、ゆったりと吐き出す。これまでは味わうことでその表情を気だるくさせていた片眼鏡の人形師だったが、このときは冷ややかでどこか残酷さすら漂わせる微笑を浮かべていた。
「だが人間の醜い事。与えられることに慢心し、もっももっとと欲張る様は、実に醜悪で見苦しい」
酷薄に断罪するように呟きながら、けれども逆に心の底からその瞬間を楽しみにしているかのように、底知れない不安を抱かせるような微笑みを浮かべる。
吐き出した煙は夜に溶け込む。
西園寺は再び煙管の吸い口に唇を当て、心行くまで煙草を堪能する。
「さて、欲深き男の結末はどうなることやら」
半ば知っているかのようだったが、あえてそれは語らず、また回避させようとも思わなかった。
自らが撒いた種ならば、最後は自らの手で刈り取るのは必定だ。
どんな結末が待っていようとも、その責任は本人のもの。
蛍が一夜で終焉を迎えるように。
その後、俺のすべてが順調に行った。
あの店で知り合ったアユやユリアはもちろん、他の女たちとも関係をもった。
ブランド物を買い与えててやると喜び、抱けば俺が今までの男の中では最高だと言ってくれた。女なんてチョロイぜ。
今まで俺を見向きもしなかったような女たちが、こぞって俺を独占しようとするさまは、腹をすかした犬が餌に無心になって、食らいついているかのようにも見えた。
それでも俺は気分がよかった。金さえあれば、どんな女だろうと俺に尻尾を振る。思い通りに扱えるのは、おもしろかった。
それから会社は新設した。
伊東たちはフェニックス・カンパニーの社長との経営方針が合わなく、数人で独立したいと言っていた矢先だったのだ。俺が会社を起こし、そしてフェニックス・カンパニーの名だたる名士たちは、俺の従業員となった。会社名は『スオウ』。名前の由来を聞きたがったが、それに俺は答えなかった。
半年もすると、俺の三億はあっという間に減り、もう一千万も残っちゃいない。
俺は再び蘇芳に頼んだ。
「蘇芳、頼むよ。金が必要なんだ。現金が。今度は五億……いや、十億欲しい。なんとかならないか?」
白塗りの丸顔の光沢ある童子人形は、相変わらず目を細めたまま笑っている。最初は嘲笑に見えたこの顔も、今では勝利の微笑みに感じられた。
会社ってのは本当に金がかかるんだ。やれ器材だ、なんだって一億の金なんてあっという間に消えちまった。それどころか、銀行から更に五千万の融資を受けた。それでもあいつらはまだ足りないという。
クソ。誰の金だと思ってんだ、あいつらは。
まるで蛆虫のように金に寄生しやがって。
「!」
蘇芳に懇願した直後、背後にありえない物音を聞いて振り返る。まるでマンガ本を何百冊も投げ捨てて、積み上げていくかのような音だった。
「わっ……マジかよ? はははは!」
なんと現れたのは札束の山。十億円の山が現れたのだ。
俺はふらふらと札束の山に近づく。本物だ、本当に本物だよ!
「すげえよ! 蘇芳! おまえはなんていいやつなんだ!」
俺は蘇芳を恋人のように抱きしめる。そして札束の中に倒れ込む。
蘇芳さえいれば、俺の人生は思うがままだ。
もう金の心配なんて二度とすることはない。この調子で無くなった頃に、何度でも頼めばいいんだから!
浮かれていた俺の耳に、携帯が鳴るのが聞こえた。半ば水をさされた気分で、ポケットから携帯を取り出す。着信はアユ。最近、あいつうざいんだよな。最初はかわいいと思ったし、連れて歩いても見栄えがするからよかったんだけど。
「はい」
殊更不機嫌を装って電話に出る。これから俺のところに遊びに行きたいとのことだった。
彼女ヅラされるのも迷惑なんだよな。女なんて捨てる程いるんだから。
あーあ、うぜえ。こいつと付き合いのもうやめた。
「悪いけどさ、もう別れようぜ? 飽きたんだよ」
突然のことに泣きじゃくるアユ。
悪いな、おまえの代わりなんていくらでもいるんだ。
「もう電話してくるなよ。じゃあな」
通話を着る。しかしすぐにアユからかかってくる。
「うるせぇな。かけるなって言っただろ? しつこい女は嫌いなんだよ。二度と俺の前に現れるな、消えちまえ」
もっといい女だっているはずだ。
今度は芸能人とつき合おう。そうだ、そうしよう。
だが通話を切ろうとした俺の耳に、信じられない絶叫が聞こえた。
それは獣の咆哮のように、耳を覆いたくなるような悲鳴だった。
ただならぬ様子に、電話を切ろうとしていた俺は、携帯にもう一度耳をつける。
「おい、どうした?」
悲鳴は止まった。そして静寂。
「おい、アユ?」
気味が悪い。問いかけてもアユの返事はない。何があったのか気にはなったが、俺は通話を切った。
いったい何があったんだろう……?
まぁ、いい。どうせ別れたんだ。どうなっても知るものか。
札束のベッドは気分がいいが、寝心地はよろしくない。ひとまず起き上がって、この札束をどうするか考える。
銀行に預けられればいいんだが、どうやって?
俺がいちいち持っていくのか?
蘇芳に頼めばいいか。
しかしこの眺めは実に気分がいい。もうしばらくはこうしておこう。
世の中金がすべてだよな。
本当に金がすべてだ。
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