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10 さよなら、僕の平和な日々よ

 しかしその足音の人物は、こともあろうにこの教室に入ってきた。
「!」
 そして明かりを付けた。
 やはり声が聞こえたんだろうか?
 僕は息を殺してじっとしていた。この瞬間は、十秒にも満たないだろうが、僕には十分にも二十分にも感じられた。
 やがて足音は遠ざかった。僕は口もとに手を当てて、少しずつ息を吐いた。額が汗でびっしょりしていた。
 足音はまだそう遠くない。各教室に入っては明かりをつけているようだった。
 僕は切ってしまったスマホを見た。すくなくともすぐにかけ直すことはできない。
 警察はこれをいたずらだと判断するだろうか?
 それとも本気にしてくれるだろうか?
 本気にしてくれたところで、パトカーがここに来るまでに五分はかかるだろう。たった五分だろうが、今の僕には五時間程待たされる気分だ。挙句に僕は学校名すら告げることができなかった。
 今の僕にはここでじっとしていることしかできない。しかしこんな窮屈なところに、いつまでいれるだろうか? すでに首も折りまげ、膝も曲げた中腰のままの姿勢だ。モップと雑巾と、これ以上仲良くなれる自信がない。
 僕がいったい何をしたっていうんだよ……非日常的なスリルは、この間のだけでもおつりが来るというのに。
 僕はふとスマホを見つめた。また電話することはできないだろう。少なくとも、この足音が完全に聞こえなくなってから、もう一度周辺に人がいないことを確認しなくちゃ。
 でも……メールなら?
 そうだ!
 メールならできるじゃん!
 でも、誰に?
 僕は警察署のメールアドレスなんて知らないし、刑事に知り合いは……いないこともないが、マレーシアにいる刑事さんに助け求めてもなぁ……それに美佐子さんのためなら、地球上のどこにいてもすぐにかけつけてくれるだろが、何時間という時間はかかるし、それにくどいようだが美佐子さんのためならではであって、僕のためというのはなぁ……無理っぽいし。
 そうだ、その美佐子さんならどうだろう? メールで現状を説明して、警察に電話してもらえばいいんじゃん!
 僕はさっそく美佐子さんにメールを打つことにした。
 えーっと、最初は『緊急事態!』っと。
 僕は用件を短くするために、頭で文書を考えた。
『今、学校の中にいる。銃を持った男たちが学校の中にいるんだ! 隠れたままで警察に電話したけれど、見回りが来て途中で切ってしまったため、いたずらだと誤解されているかもしれない。警察に連絡して、僕の高校に警察を向かわせて欲しい』
 送信。
 ただ問題ある。美佐子さんがすぐにこのメールを読んでくれたらいいんだけど、もしも例の仕事に出ているなら、忙しくて見ない可能性もある。あー、それはありうる。
 僕は美佐子さんがメールを読んでくれることを祈りつつ、窮屈な用具入れの中で返事が来るのを待ち続けた。


 モップと雑巾の独特の臭気に溢れる、掃除用具入れの中で待つこと十五分。待ちに待った美佐子さんからの返信が届いた。
 真っ暗な用具入れの中、眩いばかりに輝く画面に映し出されたメールの文字をみた瞬間、僕は腹が立ってきた。
『あらそう、がんばりなさいよ。何事も経験よ、経験』
「みっ……みぃ……さぁ…こぉ……さぁ…ん……」
 経験だって? 経験!
 スクール・ジャックされたうえに、銃らしきものを所持している危ない連中が闊歩するこの学校内で、いったい何を経験しろって言うんだ!
 僕は地獄の鬼でも浮かべない憤怒の形相を浮かべて、メールを送り返した。
『いいから警察呼んでよ! 僕が死んでもいいわけ!』
 非常識にも程があるよ!
 実の息子が危険な目にあっているのに、何事も経験だって! 自慢にもならないよ、こんなことは!
 イライラしながら僕は待っていた。もしも今この用具入れを開けられたら、開けたやつを真っ先に殴り倒せる自信がある程、僕は頭にきていた。
 だってそうだろう?
 自転車のチェーンが外れて困っているとか、財布を落としてショックを受けているとか、そういうレベルじゃないんだよ? いや、財布を落としたら、絶望的だけど。
 命がかかっているんだよ?
 それも僕だけじゃない、稲元たちや用務員のおじさんまで! 僕が知らないだけで、もしかすると先生たちや、他の生徒も捕まっているかもしれないのに!
 今度は美佐子さんの返信も早かった。
 それだけに僕は嫌な予感がしたんだ。そろそろとメールの開封をしてみる。
『えー? どうしようかなぁ?』
 えぇい、鬼だ! 悪魔だ!
 あぁ、ちくしょう! 現状がこうじゃなかったら、速効電話して怒鳴ってやるところなのにぃ!
 何考えているの、あの人は!
 はっ!
 まさか……
 昨日セットフリーターの仕事を断ったの、根に持っているんじゃ……
 ありえる。
「はぁぁぁ……」
 僕は深々とため息をついた。わかっていたつもりだよ? 十七年間も一緒に生活してきたわけだしさ。目茶苦茶な人だけど、一応母親なわけだし。
 でもさ。
 時と場合を考えるくらいはしてもいいと思わない? 命の危険があるんだよ? 相手は銃を持っていて、こっちは丸腰でさ?
 こんな狭くて臭い用具入れの中に、こそこそ隠れてなきゃならないような、そんな状況下に晒されているんだよ?
『もういい。美佐子さんには頼まない。死んだら葬式くらいは出してよね』
 物騒な返信をすると、僕はもう一度溜め息をついた。そうさ、美佐子さんを頼ろうとするところから間違っている。

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