見出し画像

02 必然の集う場所

 私は床に伏せたまま、窓の外を見つめた。
 雨は朝から降り続いていて、止む気配がない。今はもう、体を起こすのがやっとで、一人で立ち上がることすらままならない。
 そればかりか、私はもうすぐ、それも近い未来に死ぬだろう。
 死ぬ……
 考えただけで竦む。まるで自分が今立っている所以外の足場が消え去り、四方を底なしの闇が覆っているようだ。
 自分の存在が消えてなくなる。
 この世界から消失してしまう。
 そしてもう二度と、誰にも会えなくなる……
 そんなのは嫌だ!
 怖い、怖い、怖い!
 ただただ怖くて……しかし同時に愛おしいのだ……
 死ねば、苦い薬も飲まなくていい。腕が痣になる程の、注射をしなくていい。何より、のた打ち回り、呼吸するだけでも苦しい、あの痛い思いをしなくていいのだ。
 私を苦痛から解放してくれるのは、今や死だけなのだ。
 これほどの甘美な誘惑から、目を逸らすことなど出来そうにない。
 死にたい、死にたくない。相反する感情がさざ波のように押し寄せては消えていく。最近はいつもこのことばかりを思う。
「……っ」
 起き上がろうとしただけで、肺にきりりとした鋭い痛みが走る。しかしそれにかまわず、私は起き上がった。
 庭の紫陽花が見たかった。起き上がるだけで見える景色が、今の私にはいつだって遠かった。私の目に映る景色はほとんどが空で、それは私に憧れと恐怖をもたらしていた。
 移り行く空の景色は、まるで私の命が消えていく移り変わりに見えた。
 そして同時に果てのない広さが自由に見えて、束縛されない世界に憧れた。
 空と死は私の中では似ている。どちらも恐れるものであり、焦がれるものだった。
「ん……」
 ゆっくりと、時間を掛けて起き上がる。腕の力が萎えていて、気を抜けば倒れこみそうになる。
 たったこれだけの動作に、私はとてつもない集中力を必要としていた。体が鉛のように重いとはこのことだ。こんなにやせ細った体なのに、棒切れのように細くなった腕では体を支えることすら難しい。
「はぁっ…」
 苦心して起き上がると、窓の外にはかつて見慣れていた庭が見えた。この屋敷にずっと住んでいたのに、懐かしい風景と感じた瞬間が悲しかった。
 桃色、空色、紫色………
 色取り取りの紫陽花が、雨に濡れたままで咲いている。たいていの花が、雨が降れば萎んでしまうのに、紫陽花という花は、いつだってしゃんと咲いている。その強さが私にはうらやましくもあった。
「きれいね……」
 たくさんの花弁を一度に咲かせ、雨に濡れて一層美しくなる花。
「ウェイン、紫陽花がきれいだわ」
 私は枕元に置いてあった、ビスクドールを抱き上げた。この時代、持っていることが罪と言われる、悲しい西洋の人形。きれいな金髪、若葉色の瞳。男の子のビスクドールはとても珍しいものなんだと教えてくれた、あの人が私にくれた唯一の思い出。
 お母さんは最初、何度もこの人形を焼き捨てようとした。その当時、同じ病床の身にありながら、まだ動く事が出来た私は、焼き捨てるなら、私ともども焼き捨てて欲しいと、身を挺してウェインを守ったのだ。
 お母さんを悲しませても、あの人がくれた思い出であるウェインを守りたかった。
「あら?」
 雨の降りしきる中、そうまるで紫陽花の中から現れたように、唐突に唐傘をかぶった男性がゆったりとした足取りでこちらへ向かってくる。
 見たことがない。仕立てのいい着物を着ている。いっそ冷ややかと言い換えてもいいような、怜悧だが凛とした美しさを併せ持つ青年は、右目に金色のフレームの片眼鏡を掛けていた。
 お客さんだろうか?
 だとしたら、寝巻きのままの姿を見られるのが恥ずかしい。
 青年は迷うことなく、こちらへ向かって来る。玄関は向こうだ。
 しかし青年ははじめから私に用事があるのかと思わせるほど、足取りに迷いがなかった。
「あ、あの……」
 戸惑う私に、青年はにこりと会釈した。
「はじめまして。僕は西園寺蓮也。人形師さ」
 唐突な自己紹介に、私は戸惑いを隠せない。
「は、はぁ…あの、あたしは」
「あぁ、いいさ! 聞かなくても。僕はウェインに呼ばれてきたのだから」
「!?」
 私はすっかり驚いていた。ウェインの名を知っているのは、お母さんと女中のタエさんくらいだ。ウェインという異国の名前を、外で口にすることなど許されていない。
「お邪魔するよ」
 西園寺と名乗った人形師は、唐傘を閉じる。しかし、わざとなのか私の顔に水滴が飛んできた。
「きゃっ!」
 私が顔を背けると、突然横合いから柔らかな、しかしさらりとした上質の生地で出来た布で顔を拭かれた。
「ごめんね」
「え!?」
 私の顔の水滴を拭ってくれたのは、その西園寺だった。だが彼は私と同じ室内にいた。同じ室内に移動するには、窓を超えてよじ登るか、素直に玄関から通されるかの二つしかない。それなりに時間が必要になるはずなのに、片眼鏡の人形師は最初から室内にいたかのような素早さで、室内にいたのだ。
「だ、だ…れっ……っ!」
 叫ぼうとしたが、胸に走る痛みに言葉が詰まる。西園寺は優しく背中を擦る。
「すぐに帰るよ。そう興奮しないで」
 いたわるような優しい声だった。顔を上げると西園寺は私から離れ、視線は枕元に置いたままのウェインに注がれた。
「ウェインはね、もうすぐこの世を去る君に、力を貸してあげて欲しいそうだよ」
「なっ……!?」
 慇懃無礼な人形師は、私をまったく見ていない。困った悪戯をする子供に苦笑するような、優しい目つきでウェインを見ていた。
 確かに寝たきりの私はいかにも病弱で、今にも死にそうに見えたのかも知れないけど、本人を前にしてそんなことを言う人間は初めてだった。
「大切にかわいがってくれた主人に、この体を貸したいのだって」
「あ……」
 人形師はそういってウェインを抱き上げて、髪を梳いた。
「君の命はもうすぐ費える。それは君自身がよく知っていること。そしてウェインもまたそれを知っている。焼かれそうになったとき、捨てられそうになったとき、君は身を挺して守ってくれた。ウェインはそれを覚えている」
 そう、そんなことも確かにあった。
 異国の人形を持っている、非国民だと。
 どんなに詰られようとも、憎まれようとも、非国民だと名指しされようとも、大切なあの人との唯一の思い出が、ウェインだった。
「僕はね、君がどうなろうと知ったことはない。だがウェインの悲鳴のような願いから、耳をふさぐことはできなかった。さぁ、どうする?」
 片眼鏡の人形師がひっそりと笑う。決して暖かな微笑みではない。どこか寒々しい、冷酷さを感じてしまうような笑顔だ。
「なにが……出来るの?」
 怖い。
 西園寺の冷ややかな視線を受けると、背筋が寒くなる。
「……」
 西園寺はウェインに視線を戻す。その横顔は、私に向けられるものとは違い、本当に優しい慈愛に満ちたものだった。その温度差がどこからくるのか、私にはわからなかった。
「君はもうすぐ死ぬ。だが漫然と死を待つのではなく、君の残りの命の全てをウェインの中に移し、君は願いを叶えるといい」
「私の願い?」
 西園寺は私の腕の中にウェインを戻した。私はウェインと西園寺を見比べる。
「待ち人がいるのだろう?」
「!?」
 私は西園寺がますます恐ろしくなった。だがそれと同時に、その誘惑に抗えない魅力を感じ始めていた。
「待ち人が来るまで、ウェインの中で眠ればいい。そうすれば、君はもう死を恐れることはなく、そして待ち人にも会えるだろう」
 心臓の鼓動が強く感じられた。息が苦しくて、思わず大きく吸い込んだ。
「そんなこと…出来るわけ…」
「できるさ。簡単だ。僕は人形師、そして人形作家。人形を作り、人形を操る。つまり君を人形にするんだ。ふふふ、何も恐れることはない。今日僕がウェインに呼ばれてここに来たのは必然だ」
 引き込まれる。
 そんなことが出来るわけがない……出来るわけが……

01><03

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?