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01 必然の集う場所

 五月雨が草木を濡らす音が、さらさら、さらさらと響く。
 雨粒が蒸発し、白く煙るような薄靄が、人形工房・ 花車堂を包み込んでいた。常なら花車堂の名に恥じない、色取り取りの艶やかな花に囲まれたこの屋敷も、こんな雨の日にはその華やかさを欠くが、落ち着きのある日本家屋であるがために、しっとりとした風格が感じられる。
 花車堂の主人にして人形作家、そして人形師である 西園寺蓮也は、店内にいた。
 髪はくせのない鴉の濡れ羽色、切れ長の涼しげな瞳は栗皮色。右目にだけ掛けられた片眼鏡が印象に残る。紺色の長襦袢、渋い浅黄色の着物をまとう青年は、まだ若いというのに和装が堂に入っていた。着崩れたところは微塵もない。
 店内は、入り口右側に西洋のビスクドールたちが、左には見る者を訳もなく総毛立たせる程の日本人形たちが、そして正面には能面が掲げられている。
 入り口から能面がある場所までは土間が続き、日本人形がある左側は、板の間になっていて、格子窓の下にもいくつか日本人形が置かれていた。
 西園寺は格子窓の丁度対極、店の奥の位置の作業台で、人形の着物を修理していた。一つ一つ手作りで出来ている人形は、その衣も当然手作りの精巧な品だ。西園寺は人形作家でもあるが、他者の製作した人形の修復も行うこともある。
 それまで雨音を聞きながら、黙々と作業を続けていた片眼鏡の人形師だが、ふと顔を上げると格子窓の外を見る。屋根から滴り落ちる水滴の音は心地よく、その向こうで雨水に濡れながら花弁を広げる紫陽花が、色取り取りの美しさを競演している。
「菊子、留守番をたのめるかな?」
 西園寺の視線が窓の向こうから、窓際の 市松人形へ注がれる。
 現在、市松人形は、東人形、京人形と合わせてや大和人形と総称される。市松人形の由来は、江戸時代の役者、 佐野川市松の似顔人形が京阪で流行り、そのころについたものとされる。
 西園寺の見つめる先には、紅の生地に、菊子の名にちなんだ菊の花の柄を取り入れた着物を着た市松人形が鎮座していた。

――いやよ、いや。菊子も連れて行かなくてはいやよ

 どこからともなく聞こえる声に慌てるどころか、片眼鏡の人形師は淡く微笑む。
「そんなことを言わないで。ごらん、外は雨だ。着物が濡れては台無しだ」

――いやいや、菊子も連れて行って

 主を困らせるかわいいわがままに、ますます西園寺は微笑みを深くした。
「だめだよ菊子、困らせては。それに傘を差して、菊子を抱けば両手がふさがってしまう。おとなしく待っておいで」
 優しく諭すように言えば、菊子は拗ねたように沈黙を返す。西園寺はくすくすと笑った。

――早く……帰ってきてね?

 寂しそうなお願いだが、逆にいじらしくてかわいらしくも感じる。
 西園寺は修復を終えた人形の着物を作業代の上に置いて、窓際まで歩くと、市松人形を抱き上げた。
 そして優しくそっと、艶やかな黒髪を梳いてあげる。
「もちろんだよ」
 窓の外に目をやれば、紫陽花が雨に濡れていた。

02

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