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25 さよなら、僕の平和な日々よ

 中庭の短い距離が、やけに長く感じた。行きは敵の現在地を確認できても、帰りは死角になるためにそれができない。それがプレッシャーになり、心臓を圧迫する。
「っっ!」
 ドアを閉めてきたことに少し後悔しながら、僕はやっとの思いでドアの内側へと体を滑り込ませる。反射的に額を手の甲で拭い、それからポケットに入れた配電版の鍵を取り出す。
 鍵を差し込み、扉を開ける。中にはいくつもランプがあり、そして大きなブレーカーレバーが四つあった。
「美佐子さん、電源落とすよ」
 マイクを意識しながら声を潜めて話しかけると、オーケーと気軽な返事が返ってきた。
『あんたは三階から二階を目指しなさい。あたしは一階から二階を目指すわ。あんたが校長室に人質って言っていたのを信用するわよ』
「確信は持てないけど。で、聞きそびれたんだけど、仲間って本当に誰か来るの?」
『んー……』
 微妙な返事に奇妙な沈黙。もしかして、口から出任せだったの?
『仲間とは言いがたいわねぇ……でも協力者とでも言っておこうかしら?』
「で……来るの?」
『たぶん来ないと思うわ。でも正直なところわからないわ。赤翼会そのものを潰しに手伝ってくれるって言うの? そんな大仕事、いくらなんでもあたし一人には無理な相談よ。こっちは逃がすのが仕事で、潰すのは契約に入ってないもの』
 それこそ潰すなんて容易なことじゃない。それには個人力ではなく、組織の力が必要となるし、どちらかと言うとそれはアンダーグランドな組織ではなく、警察組織でなければ出来ないだろうと思う。
 まぁ、表ざたには出来ないという一点で、警察もアンダーグランドも一緒だけどさ。
「警察関係の人? また田崎さん巻き込んだの?」
 田崎さんとは美佐子さんの信奉者の一人で、僕のパパの候補の筆頭だ。警視庁の国際捜査課の刑事なのだが、美佐子さんのためなら法でも犯す求婚者でもある。以前、僕は田崎さんが美佐子さんの仕事のために堂々と法を犯すのを、僕は知ってしまった。それからパパ候補の筆頭として考えるのはどうだろうと思うようになった。
 非常識な親は一人でもお釣りが出る。せめてパパとなる人は、まともであって欲しいじゃない?
『警察の従兄弟ってところかしら? 警察じゃないけど、近いところって感じ?』
 ぞくうぅ……
 僕はまたまた嫌な予感。
 その手の人物に一度だけ会ったことがある。はっきり言って好きになれそうにないタイプの人だった。出来る男って雰囲気だけど、腹黒オーラ全開だったよね、あのダンディーな人。あの人は確か田崎さんの従兄弟だったっけ。
 だけど田崎警視監ではないな。そんな気がする。
「わかったよ。ほどほどにしてね」
『出方しだいね』
 やれやれ……こんな人に協力する役人がいるんだもん。この国は目茶苦茶だ。
「切るよ」
 僕はブレーカーに手をかけた。そして一気に落とす。
 ガシャンという音はしたが、どのあたりが消えたのかわからない。続けて二つ目、三つ目、四つ目と落としていく。当然僕のいたところも光は唐突に消えた。
『目が慣れたら行動して』
「ラジャー」
 僕はマントと帽子を拾いあげた。ここまできて知り込みするのも無駄なあがきだ。例えるなら、自殺しようとしてビルの屋上から飛び降りた瞬間に、やっぱり死ぬのはよそうと思うのと同じだ。一度飛び降りたが最後、このまま落ちていくしか選択は残っていない。
 僕は帽子に詰め込んだマントをかかえて、手すりに手を添えたままで階段を上っていく。もう見つかることを恐れる必要はない。
 三階にたどり着く頃には、もう暗闇に目は慣れた。僕は双眼鏡を外し、野鳥観察部のドアを開けて入口に放り込む。ガチャンという派手な音から推測するに、壊れたのは確実。
 ごめんなさい。
 気を取り直して廊下を進む。もう一度演劇部の中に入ると、サングラスと帽子を小道具の入ってある箱に戻した。マントは動きづらいので戻して、代わりに黒いシャツを拝借した。これでよしっと。
 僕は廊下に出ると歩みを早める。しかしふと思い出した。
 コンドームである。
 僕は北側校舎に向かい、一番近い教室に入り込むと、教壇を目指す。
 各教室に備えつけられてある、あるものを使うためだ。
 それは黒板消しのチョークの粉を吸い取るクリーナーだ。ティッシュの箱より一回りくらい大きなそれは、黒板消し専用の掃除機だと思っていい。僕はそれの粉の溜まる引き出しを慎重に取り出した。
 中にはチョークの粉がぎっしりと詰まっている。
 僕はコンドームを一つ取り出し、くるくると巻かれてあるそれをほぐす。五センチ程戻すと、コンドームを入れていたパッケージをヘラ変わりに、中に粉を入れる。アレを始末する要領で、一・二度捩ると、再びコンドームをほぐす。それからおもむろに風船の要領で、息を吹き込む。
 するとそれはやや丸く、やや長細い風船になった。野球場のスタンドや、NBAのスタンドで、応援や冷やかしなどに使う風船に似ているような気がする。あれの場合は結んだりしないで手を放すと、ピーピーという音をたてながら飛んでいくよね。
 これはちょっとしたフェイクに使うのだ。っていうか、こんなことくらいにしか、今は使い道ないしさ。
 それからチョークを一本拝借して、僕は教室を出た。北側校舎から西側校舎へと向かう。途中廊下の掲示板から、画びょうとポスターを貼っていたテープを剥ぐ。チョークの先端に画びょうを着け、テープで固定する。はがしたテープでは粘着力が弱く、すぐに取れてしまいそうな感じはしたが、一度もてばそれでいい。
「ちくしょう……どうなってんだ……」
「!」
 声はそんなに近くはない。耳を澄ますが、今の問いに答えを返す者はいないということは、相手は一人だ。
 まさに持ってこいのチャンス。

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