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34 さよなら、僕の平和な日々よ

 時刻は午前三時。まだ暗いが、東の空にやや明かりが射して来ていた。疲労困憊の僕と稲元は、それぞれホテルのツインルームのベッドに大の字になって寝転んでいた。
 眠気は確かにあったけれど、あんなことがあった後じゃ、素直に睡魔に身を委ねられない。微妙な空気に満たされていて、僕としては肩身が狭い。
「助かってよかったじゃん、じゃ、だめだよなぁ……」
 疲れきっていてもう言い訳すら、僕には思いつかない。
「……まぁな」
 あれから大林さんは犯人を拘束した。携帯で大林さんは仲間を呼び、この事件が『なかった』事として処理を済ませた。
 それで僕らは美佐子さんの運転する車に乗せられて、ホテルへ着いた。稲元は疲れと恐怖のせいでぐったりしている様子だった。もちろんそれは僕も同様だ。ただ稲元とは立場が違う分、心理的負担の種類も違った。
 僕はとにかく疲弊していた。もう何も考えずに眠ってしまいたかった。が、そうはいくまい。
 ホテルにつくと美佐子さんは、僕らを部屋に残して出かけてしまった。
「僕も巻き込まれたんだけどね」
 これは事実。何も好き好んでやったことじゃない。
「で、でも……」
 稲元からすれば、僕は稲元たち寄りではなく、大林さんや美佐子さん寄りに見えるだろう。
 まぁ、一人は実の母親だしねぇ。
「まぁ、あれからのことなんだけど、僕は教室で一部始終を見ていたんだよ。怪しい車がグランドに来て、おまえたちを捕まえてさ……こりゃ大変だって思って、用務員さんに助けを呼んでもらおうとしたら、犯人の仲間が来てだろ? 隠れたはいいが、犯人が建物の中を巡回しているから、迂闊に電話も出来なくてさ……逃げ隠れして、ようやく警察に電話して、で、まぁ……こんな感じ」
 一応大部分が真実だ。細かいことは言ってないけど。
「柿本……約しすぎじゃないか?」
 やはり気付いたか? 稲元は案外単純そうなので、これで騙されてくれないかなぁと思ったのだが。
「そう?」
 だからと言って、本当のことを全部話せるかよ。美佐子さんはセットフリーターで、大林さんは内閣情報調査室のエージェント(たぶん)で、今度のドタバタ劇は国政に関わっていたなんてさ。
「全員助け出したつもりが、おまえだけ連れ去られていて、その瞬間を見ちゃっていた僕が、あの人に巻き込まれたんだよ」
 これだって嘘じゃない。ただ、本当のことでもないけど。
「でも警察ならなんでもっと人がいないんだよ?」
 確かに。妙なところで鋭いな。
「不況だから、人件費節約したんじゃない?」
 そんなわけないだろうが、そう言うことしかできないし。
「しかも美人のお姉さんで、警察には見えない人たち二人きり」
 そのお姉さんのうちの一人は、当然美佐子さんも入っているんだろう……稲元の誤解を聞いていると、複雑な心境になる。
「最近は警察も、イメージアップ作戦でも推奨しているんじゃないの?」
「柿本……本当のところ、なんなんだよ?」
 しかし稲元も食い下がるなぁ。僕はだんだん面倒臭くなってきた。
「知らないよ」
「まさか……」
 ギク。
「おまえの恋人とか?」
「はぁ?」
 予想外の台詞に唖然とする。お弁当の蓋を開けたら、おかずはあるのにご飯が入っていないような衝撃だ。ありえない、そんなのありえないよ!
「だってほら……金髪のお姉さんと親しそうだったじゃん」
 あれでも母親だからね。そりゃ、親しいよ。毎日顔を合わせているんだし。
 でも恋人はないだろう?
 僕はおかしくなって笑い出した。冗談でも勘弁して欲しいよ!
「違うよ。絶対にありえない。世界が破滅してもそれだけはありえない」
 あってたまるもんか。僕はマザコンじゃない。一度笑い出すと、感情がコントロールできなくて、僕は笑い続けた。
「なんでそう言い切れるんだよ」
 しかし稲元は食い下がる。それがますますおかしい。
 母親だからだって。でも言えない、というか、言いたくないしなぁ。
 何とか笑いの余韻を収めて、深呼吸をした。まいったな、涙が出てきた。僕は目尻を拭って説明をした。
「ありえないものはありえない。絶対に可能性はない。だってあの人、とっくに三十過ぎているんだよ? 高校生の息子もいるし」
「うっそ!」
 稲元は余程驚いたようだ。まぁ、外見だけは粘り尽くせば二十代後半の外見を保っているからなぁ。
「じゃ、もう一人の人も?」
 大林さんのあの抜群なプロポーション。見た目から受ける印象は、青臭さの残る二十代前半ではないと思う。
「さぁ……聞いてないよ。でも二十代後半、三十代前半じゃないの?」
「ひぇ……女ってすげぇな」
 なんだか話題が逸れてきた。が、逸れた方向も僕にとっては喜ばしくないな。
「でも、なんで三十過ぎているって知っているんだ?」
 まいったな………どこまで食い下がるつもりだ?
 その時、ドアがノックされた。僕はほっとして立ち上がった。

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