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夏の終わりに……

 たまたま、外へ出ようと考えたのは数十分前のことだ。
 家の外へ一歩出ると、ねっとりとした熱い空気が全身にまとわりついた。これから季節は涼しくなっていくというのに、まだ暑苦しさが残っている。
 額から頬にかけて流れ落ちる汗を乱暴に手の甲で拭う。
 そのまま手を下ろすと、少し先に誰かが立っているのに気付いた。
「リーンハルト……?」
 声をかけると口に煙草を咥えて、ぼんやりと海を眺めていた長身の男は、ゆっくりと振り返り口角を吊り上げてニヤリと笑った。どこか楽しそうなそれでいて悪戯めいた、そんなダークブラウンの瞳は細められている。全体的に見るとごく一般的な、可もなく不可もない顔立ちだが、軍人という職業柄体を鍛えているため引き締まっていて、いつも背筋がぴんと伸びている。
「よう、イーリス」
 西日がまだ眩しい夕刻、空は燃えるような朱に染まり、海は太陽の光を鏡のように弾いていて目がくらむ程に眩しい。そんな中、まるで暑さを感じていないかのような涼しい顔のリーンハルトは、いつもならば後ろに撫でつけている黒髪を下していたが、着ている服は見慣れた海軍の迷彩服だった。
「あれ……? どうしたの? 今日非番だったっけ?」
 イーリスは亜麻色の髪を掻き上げながら、小首をかしげた。
 三か月の航海訓練は、途中同盟国側に非常事態が発生したために、そのまま実践に投入された。おかげで七か月間、海の上で生活する羽目になったイーリスたちは、二日前にようやく陸地に戻り、昨日から交代で休暇になっていた。とはいえ、今回の寄港は補給を兼ねた休暇のため、一週間程で空母はまた海へと旅立つ。海軍基地に戻るまでは、航海訓練は終わらない。
 イーリスやリーンハルトをはじめとした、艦上戦闘機パイロットは非常事態に備えるために交代で休むことになっていた。
 この港町・バリエーは、イーリスの故郷ということもあり、イーリスは上官の計らいで先に非番にしてもらった。海軍に進んだ娘、それも艦上戦闘機という数少ないファイターになったことに今でも反対している家族ではあるが、イーリスの帰還をこれ以上ない程喜んで出迎えてくれた。
 そんなわけで休暇のためにイーリスの恰好は、ハーフパンツにティシャツとだらしないが、この恰好も空母ではよくある見慣れたものであり、見られることに抵抗がないくらいに、いつも通りの恰好だった。
「一応な。飯食った?」
「まだ。リーンハルトは?」
「まだ。だから誘おうかなと思ってさ」
 そう言ってリーンハルトは煙草を捨てて踏みにじった。何とはなしに足元を見たイーリスはそれを見て絶句する。
 吸い殻の数が尋常ではない。一箱近く吸っていたのだろうか?
 ということはこの暑い中、いったいいつからその場所で待っていたのだろうか?
 イーリスの家がわからないなら、この距離まで来ないだろう。何せイーリスの実家はこの場所からは目と鼻の先の距離だ。わかっていたのに訪ねないのは、非常事態があったわけでもなく、訪ねにくかったからか? 
「あの、ね……いつからそこにいたの?」
 思わず吸殻に視線を注いだままで尋ねると、リーンハルトは少しだけ首をかしげて笑った。
「ちょっと前」
「嘘」
「もう少し前かな」
「吸い過ぎじゃない?」
 戦闘機乗りは毎日空を飛び回る。けれど尋常ではない重力の負担が肉体にかかる。もちろん酸素マスクもする。7Gもかかれば息も吸えないし吐き出せない瞬間もある。耐Gスーツを着て血流のコントロールをしても、場合によっては瞬間的に8〜9Gの負担が肉体にかかる。血流が上半身に行かず、下半身に集中してしまえばブラックアウトを起こす。意識の喪失は墜落の可能性を高くする。すぐに気付けばいい。けれど場合によってはそのまま失墜し、敵の攻撃を避けることができないまま、撃墜されることにもなる。
 それは文字通り死を意味する。だからファイターは自分の肉体の健康管理にも余念がない。
 煙草なんてもってのほかだ。それなのに何度やめろと注意しても煙草をやめない馬鹿がリーンハルトだ。
「吸い貯めしてたんだよ」
「何のために?」
 戦闘機に乗っていては確かに吸えない。けれどイーリスもリーンハルトも休暇を兼ねた非番中だ。もっともイーリスにしてみれば、吸い貯めというのが可能なものなのかどうかよくわからない。イーリスは煙草を吸わないし、吸いたいとも思わない。
「そりゃ、禁煙の店だったら吸えないだろ?」
「……」
 リーンハルトはそう言って肩を竦めた。イーリスは溜息を洩らしつつ首を振った。
「そこに煙草捨てられる方が迷惑。拾って」
「えー?」
 そう言いつつもリーンハルトはしゃがみ込んで、すでに火の消えた煙草を拾い始めた。軍人の悲しい性は、命令されると無条件で従ってしまうことだ。
 特にイーリスとリーンハルトは、エレメントを組んでいて二機でのフライトの時は一緒になるバディだ。他の軍人と違って、戦闘機パイロットにはタッグネームというあだ名が存在しており、それで呼び合うことになっている。これは戦闘機パイロットにだけ許されたことであり、通常軍人はファミリーネームに階級を交えるのが一般的だ。親しく呼び合えるのは、戦闘機パイロットだけ。タッグネームはパイロットの栄誉の一つだ。
イーリスもリーンハルトもそのタッグネームだ。
「家に持ってきて捨ててよ。そこに捨てられて噂になったらどうするのよ。迷彩服来た胡散臭い男が散らかしたって言われるの、私の家の人なんだから」
 お隣さんはイーリスが海軍に進んだことを知っている。そしてこのたびの寄港でイーリスが帰ってくることを、イーリスの家族がどれほど喜んで、吹聴しているかも……おそらくは知っているだろう。そうなると海軍の迷彩服を着ている人間の目撃情報は、必然的にイーリスの同僚と見られる。
「家に……」
 しゃがみかけて振り返ったリーンハルトは、目を丸くし、次いで落ち着かないように挙動不審に視線を逸らした。もっとも視線を逸らしたところで、身長の高いリーンハルトの表情はイーリスには見えていた。
「私がこんな散歩の恰好で店に行けるわけがないじゃない。家で食べなよ。すぐそこなんだし」
 海上では食事は制限される。もちろん補給部隊からの空輸もあれば、船での補給もある。それでも生鮮食品は貴重だ。補給した直後はいいが、数週間も、或いは数か月も持たない。そのため加工食品が多く、慣れたとはいえ食生活は単調だ。だからこうした寄港地に立ち寄った際は、自腹をきってもおいしい食事にありつきたい船乗りたちは、皆迷うことなく食事に出かける。
 イーリスも昨日自宅に戻って、久しぶりの家庭の味に大満足だった。料理上手な母を持ったことは幸せだ。
「いや、だって、俺が、そんな」
 挙動不審になったリーンハルトを見て、イーリスは首をかしげる。いつもは飄々としているだけに、よくわからない謎な行動に見えたイーリスは眉をひそめた。
「何よ? 嫌なら別にいいけど」
「嫌じゃない! 行きたいけど、俺、その、何も用意してないし、それに心の準備というものが……」
 何も取って食おうとしているわけじゃないし、イーリスの自宅はごく一般的な普通の家庭だ。豪邸に住んでいるわけでもなければ、著名人というわけでもない。緊張を強いる人物がいるわけでもない。イーリスはますます胡乱な目つきでリーンハルトを見た。
「はぁ? 何言ってんのよ? リーンハルトは私にプロポーズでもするわけ?」
 パイロットの絆というのは独特だと思う。肉体を鍛えるための訓練は一緒に出来ても、空の上ではコックピットに一人きりで孤独になる。けれど誰よりも繋がっている。この感覚はパイロットでなければわからない。説明のしようがない。
 男であることも女であることも関係のない場所で、自分たちはどこまでも残酷な殺し合いをしながら、けれども自由になれると感じる。肺が押しつぶされそうな息苦しい負荷を全身に感じているのに、遠い空を手に入れた錯覚に陥りながら、解放されているのだと感じられる。
 この感覚を共有できるのがパイロットだ。
「えうっ、あ!」
「え……?」
 拾い集めた吸殻を握りしめて、リーンハルトが真っ赤になっている。それは決して西日のせいではない。
「……」
「嘘……」
 これまでそんなことを感じさせたことがない男だった。いつも飄々としていて、何を考えているのかよくわからなくて、けれども空では自分の半身であるかのように、誰よりも分かり合えるパートナーだった。
 けれど、お互い男女の一線を越えたことはなかったし、一度たりとも口説かれたことはなかった。
 呆けたままイーリスが見ていると、リーンハルトは盛大に舌打ちをした。
「クソ! この暑さが悪い! あぁ、ちくしょう! もっとスマートに口説く予定が……」
 そう言うと、リーンハルトは拾い集めた吸殻をぎりぎりと握りしめた。
「ぶっ! それを私の前で言うかなぁ、普通?」
 とうとう耐え切れずイーリスが笑い出すと、きまり悪そうな表情を浮かべたリーンハルトは、諦めたように溜め息を漏らした。
「もういい……帰ってビール飲んで寝る」
 がっくりと肩を落とすリーンハルトを見て、イーリスは男のやせ我慢を見た気がした。いつからそう言う目で見ていたのか……嫌いじゃない。じゃぁ?
 その答えはすぐに必要じゃないだろう。これまでこちらに気取らせなかった男だ。今更焦ったりはしないと思う。
「待って。私の家族に紹介するよ」
「え!」
「バディだって。まずはそこからでしょ」
「いいのか、行っても?」
「いいよ、っていうか、家を目の前にして帰る方が変じゃない?」
「まぁ……」
 イーリスが歩き出すと、握りしめた吸殻をどう扱うか迷っているリーンハルトも歩き出す。
 ようやく涼しくなり始めた風を頬に受けながら、二人は海洋上の緊張から解き放たれた束の間の休息に肩の力を抜いた。

 夏の終わりと共に、二人の関係が大きく動き始める予感がしていた。

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