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02 僕の平和が遠ざかる

 交友関係も広いし、本人がその気になれば再婚なんて何度でもできる。美佐子さんの外見に惑わされている男は、不幸にも何人もいて、まだ夢から目が覚めていないようだが、美佐子さんさえ承諾すれば、僕には明日にでも『パパ』ができるわけだ。
 僕は再婚に大賛成なのだが、当の美佐子さんが再婚に応じない。一日も早く再婚をしてくれれば、僕は「パパ」に美佐子さんのすべての、厄介ごとを押し付けられるのに。
 美佐子さんの事を考えただけで、うんざりする僕の目の前で、黒田が妄想を炸裂させた。
「夢がないねぇ、おまえってさ。俺なんか良一の母親だってことわかっていても、熟女との『いけない事』考えちゃうね。『坊や、かわいいわね』『あ、そんな! おばさん!』『美佐子ってよ・ん・で』ってな。かぁー、美佐子さんが母親なら、俺はマザコンになってもいいぜ……」
 黒田の視線はどこか遠い。僕は頬を引きつらせたまま、そっと椅子から立ち上がりカバンを手に取った。
「……そうか、じゃあな」
 僕は呆れた溜め息を漏らして、席を離れた。黒田はまだ妄想の世界に耽っているらしい。
 おまえは確実にAVの見すぎだ。現実の女はそう甘いものじゃないよ。
 教室を出て廊下を歩く。西日が射すにはまだ早い。僕と同様、帰宅する生徒、部活に出る生徒や、デートに費やす生徒で廊下はいっぱいだ。込み合う廊下を縫うようにして歩く。
 僕は部活をしていない。興味がないわけじゃないが、これも美佐子さんの命令の一つで、突然店番を頼まれるために部活はできないのだ。中学の頃は少ししていたこともあった。
 だがやはり突然店番を頼まれて、そのために何度も部活を休むはめになり、そして先輩がたから呼び出されるという寸法だった。
 僕は子供のころから美佐子さんの『男は強くなくっちゃ!』という方針の元、空手と合気道をずっと習っていた。中学の部活に空手部も合気道部もなかったので、僕は柔道部に入っていたわけだが、店番のために部活をさぼり、先輩に呼び出される末に殴られるということがあった。向こうももちろん柔道部員なので、体格はいい、腕力はあるわで、押さえつけられて殴られた僕は、前歯を折られたのである。
 言っておくが僕は心優しい平和主義者で、人生は穏やかに歩みたいタイプの人間なので、本当ならわざと殴らせておいて事を済まそうとしていた――のだが。
 前歯を折られた瞬間に不覚にも僕はキレた。前歯は保険がきくものも、きかないものがあり、きいたとしても高いのだ。人の前歯を折っておいて、彼らが治療費を出すわけがなく、僕は先輩がた十人を相手に乱闘した末に、全員を叩き伏せて勝ってしまった。
 以来、僕は同学年どころか先輩たちにまで恐れられ、先生たちにまでも要注意人物の指定を受けてしまった。
 僕は穏やかに生きていきたいだけなのに……
 そういうわけで、高校に入ってからは、無用な乱闘を避けるために部活はしていない。
 上級生からは熱烈な歓迎を、今もたまに受けることがあるが、僕と同じ中学出身の人が親切に忠告してくれるらしく、いずれは熱が冷めるように近づかなくなる。
 そもそも僕は体格にめぐまれて、身長もやや高い部類に入るし、格闘技を学んでいるおかげで体格もいい。
 美佐子さんに言わせると『あたしに似て、いい男に産んであげた』おかげで、顔もそんなには悪くはない、と思う。たぶん。おそらく。きっと。似ているとは思えないけど。
 しかし中学のころの悪評と、僕自身の女性不信ぎみが響いて現在彼女はいない。女性不信の理由は言わなくても、もうわかるだろう。
 玄関に辿り着いた僕は、上履きを履き替えて外に出た。その眩しさに目を細めながら空を仰いだ。
「あー、天気いいなぁ」
 人生はこんな良く晴れた青い空のように、穏やかに過ごしていけたらいいと思う。
 校舎から出て自転車置き場に向かうと、僕は鍵を外して自転車にまたがった。幸いにも、自宅から十分未満のところに学校があるおかげで、通学に不便はない。学校自体も辺境ではなく街のど真ん中にあるおかげで、快適な学生生活を送っている。
 私生活を除けば。
 やがて自転車の群れに混じって、だらだらと自転車をこぎながら僕は帰路についた。

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