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03 必然の集う場所

 人形師の手が、私の頬に触れた。男の手にしては細い。私は驚いたが、振り払えなかった。
「さぁ、どうする?」
 覗き込まれた瞳を逸らすことができない。本能的な恐怖にさらされながら、私は人形師に訊ねずにはいられなかった。
「で……できるの?」
 腕の中に抱きしめた、ウェインに力がこもる。人形師は私に冷涼とした顔を近づけ、淡く微笑んだ。
「できるとも。ただしこれが最初で最後の機会だ。君が断るなら僕はこのまま帰ろう。そうすれば君はウェインに看取られ、近い未来に死ぬ。もし僕に力を借りるなら、君は仮初めの命をウェインの中に宿し、死の恐怖を忘れ、待ち人に会う日を夢見てまどろめばいい」
 唇が触れてしまいそうな程顔を近づけられていても、恥ずかしいと思うより、端正な顔立ちの人形師が恐ろしくて、そして魅力的だった。
 もう死の恐怖に震えなくていいの?
 あの人を待ち続けてもいいの?
「でも…そんなことをしたら、もうあの人に会えない」
「会える。そういう場所へ君を連れて行こう。しかし、すぐには会えない。それは覚悟してほしいな。なぁに、大したことじゃないよ。あの場所もまた、さ迷う魂が必然に導かれて足を踏み入れる場所。君がそこにいれば、待ち人は必然に導かれて必ず来るさ」
 そう言って笑った西園寺は、少しだけ不快そうな素振りを見せたが、すぐに微笑んだ。
 人形師の指が私の 頤おとがいをなぞった。少し冷たい指の感覚にぞくりとした。
「さぁ、どうする?」
 私は息を飲んだ。
 死にたくない。死ぬのは怖い。
 あの人に会いたい。会いたい……
 会いたいの……
 私は本能的な恐怖より、自身から湧き上がる欲望に膝を屈した。
「本当にもう一度会える?」
「会えるさ」
 私の頬に涙が伝う。死の恐怖は未だにこの身を苛むけれど、あの人に会えるのなら、何を犠牲にしてもよかった。
 最後の言葉をあの人に伝えられなかったことが、いつまでも後悔となり胸に残っている。私の勇気がなかっただけのことを、時代のせいにして自分を誤魔化したけれど、そんなのは結局長くは続かなかった。
 愛している。
 誰よりもあなただけを愛していると、大声で伝えたかった。
 けれど病に侵されたこの体では、二度と会えないだろう。
 終戦を迎えるまでこの体はもたない。
「会いたい……」
 涙は頬を伝い、ウェンディの頬に滴り落ちた。
「では会わせてあげる。ただし、覚えておいで。必ず会わせてあげる。でもすぐにではない。それでもいい?」
 私は人形師の言葉に頷いた。このまま死ねば二度と会えないのだけは確かだ。それならば、長い時を会えなくても、もう一度だけでも会えるほうがいい。
「構わない」
 私がそういうと、端正な顔をした人形師は、私の頬の涙を拭った。そして印象的な右目にかけられた金のフレームの片眼鏡を外した。
 改めて見れば、ぞっとするような冷ややかな美貌を持つ青年だと認識する。思わず吸い寄せられるように、見入った。
 気付かぬうちに、西園寺の手がウェインの頭に載せられていた。
「ぁ……」
 冷ややかな闇色の瞳に、吸い寄せられるように見入っていると、そのままで西園寺の唇が、私の唇に重なった。
 驚いて、思わず押しのけようとしたが、体にまったく力が入らない!
 ただ雨音だけが耳に届いていた。
 眩暈がして、思わず目を閉じた。失礼な西園寺を突き放そうにも、やはり力が入らなくて……
 え?
 視界がとたんに開けた。
 私が見ている世界は広く感じた。人形師の手が頭に触れていて……?
「失礼、お嬢さん…さて、行こうか?」
 西園寺は私の体をそっと横たえた。その上で私は抱き上げられたままで、それを見ていた。
 そう、私は私の体を見下ろしていた。唇を奪われたことで、怒りと羞恥で、頬が紅潮していて、かえって瑞々しい。しかしもう呼吸をすることはない。私は苦しむこともなく、死んで……いや、今はウェインの中にいるの?
「菊子を連れてこなくて正解だった。もしもいたら烈火のごとく怒り狂う」
 ささやくように言った人形師は、おかしそうに笑いながら、外していた片眼鏡をかけた。
「約束の地へと連れて行こう」
 私を見下ろす人形師の目は、この上なく優しげなものだった。
 人形師は恭しく私が雨に濡れないように、更紗でできた風呂敷に私を包んだ。
 私は……本当にウェインの中に入ったのだ!
「必然に導かれて集う場所へね」
 歌うように言ったあと、人形師は忽然と姿をかき消した。
 雨に濡れた庭の紫陽花だけが、すべてを見つめていた……

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