05 蘇芳
「は?」
そして片眼鏡の人形師と視線が合う。
そして若き人形師の瞳に吸い込まれる。冗談でも嘘でもないと、なぜか信じる気になってしまう。
西園寺は蘇芳という名の伊豆蔵人形の頭を撫でた。
「前にお貸しした人は、別れた恋人とよりを戻したいと言って、その通りになった。その前の人は絵かきとして世界に認められたいと言って、今や誰もが名を知る有名画家になった。君は蘇芳に力を借りたいとは思わない?」
そんなの嘘だ……
そんなの……
それなのに差し出された人形を、言われるがままに手に取った。手入れが行き届いているのだろう。人形の顔は汚れていない。
「何を願っても叶えてくれる。蘇芳は持ち主の願いを叶える人形なんだ」
自信に満ちた人形師の声にのめり込む。
「マ……マジかよ?」
俺の声は震えていた。
だってそんなこと………ありえないだろ?
そんな非現実的なことが起こるはずがないじゃないか?
なぁ、そうだろ? 何でも願いを叶えてくれるだなんて、馬鹿馬鹿しいじゃないか……人形師と視線が合う。人形師はうっすらと、魔的な微笑を浮かべていた。
俺は視線を伊豆蔵人形に戻す。
でも、もしも……本当に……こいつにそんなに力があるとしたら……
「本当かどうかは試してごらんよ? 君の願いが叶うまで貸してあげる。だからよく考えて、蘇芳に願うんだね」
俺は手にした人形に視線を落とす。
もしも本当に、願いが叶うのだとしたら……
借金を返すことだって、いいや、金持ちになることだって可能じゃねぇのか?
「だけど俺……金……」
タダで貸してくれるのか? 見ず知らずの、しかも自殺するためにきた俺に?
俺の戸惑いに気づいた西園寺は、わかっているとばかりに頷いて見せた。
「あぁ、借金をしているんだったね。では御代は君が願いを叶えたら、頂戴することにしよう。謝礼の額は君の感謝次第ってことで」
「そ、そんなんでいいのか?」
つまり、俺が百円だと言えば百円、百万だと言えば百万ってこと?
感謝に見合った額を払えと言っているんだよな?
「いいよ。その代わり、願いが一つ叶ったら必ず蘇芳を返しに来てね。それだけは絶対に約束して」
「わかった……けど、本当にそんなことがあるのか?」
半ば信じる気になっていたが、それでもなけなしの理性が、それは嘘だとまくし立てる。
しかし人形師は自信があるような微笑みを浮かべた。
「あるよ。何が怖い?」
その瞳に俺の意思が引き込まれていく。
「この世の理のすべては、なるべくして起こる。起きた全ての事象は、必然によって生まれる。君が今日こんな場所に現れたのは、蘇芳に出会うためだ。恐れることなんてどこにもない」
引きずり込まれる。
なけなしの理性は屈伏し、すべてこの人形師の言う通りだと思える。
そうだ、俺があんな惨めに死んでいいわけがない。
俺は成功してみせる。そのために田舎から出てきたんだろう?
「けれどもそうだね……君は特別に、二つ許そうか? 蘇芳、彼の願いを二つ叶えてあげて」
「いいのか?」
「いいとも。よく考えて願いを口にするんだ。口にした時点でそれは実行される。それを忘れないで」
俺はすっかりその気になって、さっそくあれこれと考え始めた。
金だ、とにかく金が必要だ。大金を手に入れて、それから仕事……あぁ、それじゃなんて願っていいのか、わかんねぇよ。
「約束したことは守ってね。願いは特別に二つまでだ。そして願いが叶ったら、蘇芳を返して。そしてそのときに、君の感謝に見合った謝礼を払ってもらうよ」
「わかったよ」
俺は薄気味悪い、蘇芳という名の人形に視線を落としながら、何を願うのか考えていた。
まずはあれだな。この山をおりて、東京に戻って、それから大金を手に入れる。
方法は?
宝くじか?
「まずは東京に戻ってだろ」
それから……あ?
「!」
俺は茫然とした。
「嘘だろ……」
なんと突然俺の視界に現れたのは、俺がホームレス同然に、寝泊まりしていた公園の風景だったのだ!
俺はベンチの上にあぐらをかき、手には伊豆蔵人形を持って、茫然と座っていた。
いったい、何が……?
「あっ!」
俺は『まずは東京に戻って』と、口にしてしまったのだ!
「!」
蘇芳はさっそく俺の願いを叶えたのだ!
あぁ、そうだ。あの人形師は言っていたじゃないか。願いを口にしてしまった時点で実行されると。
「すげぇ……本当に……本当に……」
どこかで畏怖するものを感じながら、それでも俺は興奮を押さえ切れなかった。
これがあれば金持ちになれる!
願いは二つまで叶えられる。
もしも一つだったら、これで終わるところだった。西園寺はこれを見越して、二つと言ったのだろうか?
そうだとしたら助かった。まだまだ俺はツイてる。
足を下ろそうとして、ベンチの下を見ると靴がない。あぁ、そう言えば靴を脱いで板の間に上がったのだ。あの店の中に置き去りにしたのだろう。
まいったな。裸足かよ。
ここで靴が欲しいと言えば、ここに靴が現れて終わりなんだろうな。絶対そんなちんけなことは口にするものか。
てっとり早く金持ちになるには……えーと……
困った。
その方法が思い浮かばない。
ただ金持ちになりたいと言って叶えられるのか?
もしも金持ちになりたいなんて言って、鉄くずが集まったらどうする?
じゃあ……社長になりたい?
でもな、借金抱えていても社長は社長だ。会社を経営しているから金持ちとは限らない。
株で儲けたい。って、株を買ってなきゃ意味ねぇよな?
ちくしょう…………貧乏人には、手っ取り早く金持ちになる方法なんて思い浮かばねぇよ。
うーん、金儲け……金儲け……今すぐに金持ちになる方法は……
「あ」
わかった。これしかない。
「宝くじで、一等前後賞三億円に当選する!」
さぁ、叶え!
「……」
変化なし。
まだ頼りなく細い東京の桜の木は、半分近く散っていた。昼間の公園に子供の姿は少なく、公園デビューの子連れの主婦すら見当たらない。散歩途中の年寄りが数人、歩いているくらいで、これといって劇的な変化はなかった。
「おい、どうしたんだよ?」
俺は伊豆蔵人形に問いかける。そこで重要なことに気づく。
俺は宝くじを買っていない!
「あっ……くそぉ! なんて……なんて俺は馬鹿なんだ!」
自分が情けない。
これでは結局意味がない。俺はせっかくのチャンスを無駄にしたわけだ。
「くそったれ!」
俺は伊豆蔵人形をベンチの裏の茂みに投げつけた。こんなもの、結局役に立たなかった。
それどころか俺は靴すらなくし、もう本当に死ぬしかない。
「ちくしょう……」
がくりとうなだれて、ポケットに手を突っ込んだ。ここにあの百円均一で買った洗たくロープがある。これで今夜には首を吊ろう。
もうどうでもいい。
「ん……?」
ロープはあった。だが指先に触れる、紙の感触。
まさか……
俺はその紙切れを引っ張り出した!
「あっ!」
それは間違いなく三枚の宝くじ!
「ま……まさか……本当に?」
宝くじを買った記憶はない。じゃあやっぱり本当に……
俺は裸足のままで立ち上がると、一番近くの宝くじ売場へ行こうとした。だが投げ捨てた伊豆蔵人形を拾いに戻る。
「悪いな、投げてよ。もしもこれが本当に当たっていたら感謝するぜ!」
はたから見れば片手に宝くじを握りしめ、片手に伊豆蔵人形を掴んだ裸足の男は、相当奇異に写ったと思う。
それでも俺はそんなことを気にしていなかった。
俺はこれから金持ちになるんだ。
おまえらとは違うんだ!
金持ちになるんだよ!
こつ然と客が目の前から消えてしまったのを、目の当りにした片眼鏡の人形師は、その瞬間だけ、ぽかんとした表情を浮かべていたが、やがておかしそうに笑った。
「やれやれ、やると思っていたけれど、まさかここでするとはね」
だから願いは二つまでと言った。借金を背負って自殺までしようと考える程、金銭的に困っている男に、街に帰る方法などないだろうと思っていたから。
「どう思う、菊子? 彼は僕との約束を守れると思う?」
茶碗を片付けながら、窓際に置かれた市松人形に語りかける。
思わないわ……
するとどこからともなく、甲高い童女の声が聞こえてきた。
西園寺は最初から答えがあることをわかっていたのか、驚くような素振りはない。
「忠告をしてあげるつもりだったのにねぇ……蘇芳は約束を叶えてくれる。けれどその代償を欲しがる子なんだと」
どこか楽しそうに、そして冷ややかに、花車堂の主は笑う。
立ち上がり窓際に置いた菊子に近づき抱き上げる。
「約束を破ると、蘇芳の欲しがるものも、どんどん大変なものになるんだけど」
引き際を心得ない愚か者ならば、しかたのないことよ。
手厳しい評価に西園寺は笑う。
「ふふふ、そうだね」
蓮也、愚かな人間のことなど、もうどうでもいいわ。私、外へ行きたいの。
「桜が見頃だものね。そうだね、散歩でもしよう」
先ほどは結局邪魔が入った。
今度はゆるりと歩けよう。命を燃やして狂い咲く桜の見事さに、圧倒されながら春を愛でるのは悪くない。
片眼鏡の人形師は、菊子を大切に抱き抱えたままで、土間に下ろした下駄に足を通し花車堂の自慢の花の庭へと歩き出した。
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