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04 必然の集う場所

 朝から冷たい雨が降り続いている。鉛色の空は重く、肌に重く感じられた。
 アンティークな景観の喫茶店、ke・lalaは暖かな明かりと珈琲の香りに包まれていた。
 店内には重厚なアンティークデザインの、9人掛けのテーブルセットが三つと、カウンターがある。そして店の奥には蓄音機があり、そこからピアノの演奏が聞こえていた。
 まだ二十代半ばほどに見える店主は、カウンターからふと窓の外へ視線を移した。冷たい雨は霧を呼んだらしく、外の景色さえ白く曖昧にする。
 レコードの演奏が停止した。
 店主・土田はすぐに視線を戻し、カウンターを出た。演奏を終えたベートーベンのレコードを戻し、改めてショパンのレコードをかけた。
 丁度、ドアに取り付けられている、来客を告げるベルが鳴る。
 店主は落ち着いた足取りでカウンターの中へと戻っていく。
 プッ、プッという音のあと、レコードの演奏の演奏が始まる。微かな音の途切れも優しい音色に花を添えているようだった。
「いらっしゃいませ」
 店主は穏やかに微笑んで、客を迎えた。
「ふん……」
 片眼鏡の人形師は、どこか不服そうな顔のままで店主の前まで来ると、カウンターの席に腰を下ろした。
 品のいい仕立ての和装の客人は、この店内では浮いて見えそうなのに、決してそのようには見えなかった。
「僕は西園寺蓮也、人形師。店主、一つ頼みたいことがある」
 慇懃無礼とも取れる唐突な申し出が、人形師の人柄を如実に物語る。
「なんでございましょうか?」
 突然の申し出にもかかわらず、店主は落ち着いていた。穏やかな笑みを客人へと向ける。西園寺はカウンターの上に、上等な生地で作られた風呂敷から、西洋人形を取り出した。包んでいた風呂敷を畳みながら、西園寺は短い説明をする。
「この子をここで預かって欲しい。名はウェイン。いつの日か、必ずこの子に会いに来る者が訪れるだろう。その日まで預かって欲しい」
 店主の前に置いたのは、美しくも珍しい男の子のビスクドール。完全に和装で決めた片眼鏡の人形師には似合わない代物だった。
「預かるだけでしょうか?」
 客人の不可思議な要求に、さすがに店主は首をかしげる。
「そうだよ。それだけだ。その代償は払おう。何がいい?」
 人形師はすうっと目を細めた。酷薄そうな雰囲気を肌で感じられる。にも関わらず店主は穏やかに微笑を返しえた。
「ではそうですね。ご注文をしていってください」
 店主はそう言ってメニューを差し出した。だが人形師はメニューを手振りで断った。
「何でもいい。僕は珈琲が嫌いなんだ。嫌いなものを選びようがない。店主が出したいものを貰おう」
 鷹揚そうに言う内容でもないが、かえって断言してくれたほうが清々しい。
 店主は小さく微笑んでメニューを下げた。
「かしこまりました」
 店主はそういって、サイフォンを用意した。西園寺は美しいビスクドールの頭を撫でた。
「しばらくは寂しいかもしれないが、きっと来る。その日まで、待っておいで」
 人形師のあまりにも優しい慈愛の声に、店主は顔を上げた。それに気付いた人形師は、やや気まずそうな顔をした。
「なんだい?」
 西園寺の視線を受けた店主は、優しく微笑みを返した。
「いえ……とても大切にしていらっしゃるようなので」
 そう言うと人形師は、当たり前のことを言うなとでも言いたそうな顔をした。
「だって僕は人形師だもの。誰の作品であろうと、人形は無条件で愛するさ。店主、君とてその道具に、珈琲に、愛着があるだろう?」
「えぇ、そうですね。別に責めているのではありません。大切にされたものには、魂が宿るものと聞いたことがございます。そういう意味で、大切にされたこの人形は、きっと魂が宿っているのでしょうと……ふと、思ったのです」
 店主の表情は柔らかく、優しげなものだった。西園寺は思わず顔を逸らした。その横顔に浮かんだのは、自嘲するような、または悪戯めいたような、一言では判断し辛い表情だった。
 やがてサイフォンから湯気が立ち上り、暖かで芳醇な珈琲の香りに包まれていく。
「珈琲ってやつは好かないが、この香りだけは悪くないな」
「恐れ入ります」
 あくまでも店主の物腰は柔らかい。西園寺は小さくため息をついて、 両提げ莨入れ(りょうさげたばこいれ)を懐から出した。両提げ莨入れとは、携帯用の煙管セットである。
「一服しても構わないかい?」
 その問いかけに応じるように、店主は灰皿を出した。
 本牛革の莨入れから、純金製の煙管をだす。普段使いのものは 羅宇らうの部分が竹でできているが、携帯用のものは全体的に短く、羅宇や吸い口部分も若干短い。
 人形師は慣れた手つきで火皿に刻み煙草を詰め、火種をマッチで落とした。
 深く静かに、ゆっくりと吸い込む様は、どこか淫蕩とした、それでいて恍惚としたような色気がある。
 店主は何も言わず、手際よく珈琲を落としていく。
 西園寺はため息よりも儚く、と息と共に煙を吐く。
「お待たせいたしました」
 店主は西園寺に珈琲を差し出した。カップに描かれているのはスターチス。
 人形師はカップを一瞥したあと、珈琲に口をつけた。そのあと、すぐに煙管を吸った。
「やはり珈琲は好かない味だ」
「残念です」
 店主はやや悲しそうだったが、人形師はそれにお構いなしだった。まるで煙草のほうがうまいと言うように、じっくりと煙管を吹かす。煙管を口にしている間中、人形師はどこか遠い目つきをしていて、心ここにあらずといった様子を見せた。
 煙管は紙巻煙草と違い、二口・三口で灰になる。だからこそ西園寺はゆっくりと紫煙を吸い込んで、じっくりと味わう。
 西園寺は着物の袖を手繰り寄せ、灰皿に 雁首がんくびの部分を軽く叩き、灰を落とした。小さな赤い火は灰皿に落ちると共に消えてなくなる。
 西園寺は好かないと言った珈琲に、再び口をつける。そのあと、カップに描かれた優美なスターチスの花の絵を見つめ、何かを含んだ様な笑みを浮かべた。
「すべてのカップの絵柄が違うね。これを僕に出した意味でもあるのかい?」
 試すように、少し意地悪く微笑むが、店主は穏やかに微笑みを返す。
「お客様に合ったものをお出しさせて頂いております。お気に召しませんか?」
「いや? いい花だ。今度うちの花の庭にも、スターチスを植えようと思ってね」
 人形師はそう言って再び珈琲に口をつける。
「絢爛な春に色を添えるでしょうね」
「あぁ、楽しみだ。ときに店主、この子は店の中が見える位置に置いとくれよ」
「かしこまりました。それではあの戸棚ではどうでしょう?」
 店主が指し示した場所には、何も入っていないガラス戸がついた戸棚がある。珍しいことに、人形師は不思議そうな顔を見せた。
「なぜ何も入っていない?」
 その隣には、珈琲カップが収められた戸棚がある。こちらには形・デザインとも、どれ一つと同じものはない。大切な商売道具を仕舞うわけでもなく、空っぽなままの戸棚は傍目には不自然だ。
「何かを入れるためですよ」
 何かを入れるために、何も入れていない。まるで言葉遊びのようなやり取りが、やけに人形師の心を動かした。西園寺はにやりと笑った。
「なる程、理にかなっている。戸棚は確かに何かを入れるためにあるものね。気に入った。そこに収めてくれ」
「かしこまりました」
 店主は恭しく頭を下げ、丁重な手つきでビスクドールを持ち上げた。そしてガラス戸を開き、ウェインが外を見られるようにして収めた。
「それでいい、ありがとう」
「いえ」
 店主の行動を見守っていた人形師は、満足そうに微笑んだ。
 それから珈琲を飲み干した。店主は少しだけおかしそうに笑った。
「なんだい、出されたものを最後まで頂くのは礼儀だろう?」
「はい。ありがとうございました。次にお出しできるときには、今よりもお客様がお気に召すよう、精進させて頂きます」
「ふん……」
 西園寺は半ば面白くなさそうな顔をした。それから煙管を、両提げ莨入れに戻して懐にしまう。入れ替えるように札入れを取り出し、カウンターに札を置いた。
 店主が釣りのために動いたのがわかった西園寺は、身振りでそれを断った。
「釣りは邪魔になる。ウェインを預ける駄賃だと思って取っておけ」
「しかし」
「邪魔だと言った」
 本当に邪魔そうに言うものだから、店主は少しだけ笑った。
「では頂戴いたします」
「うん。ではいつの日か再び来るだろう。その日までその子を頼む」
「かしこまりました」
 人形師は席を立つと、振り返ることもなく歩き出した。その後姿に店主は頭を下げる。
「ありがとうございました」
 人形師は店主の声を背中で受けたままで、店を後にした。
 店主はドアの閉まる音を聞いた後、窓の外を見つめた。
 雨は今も降り続いている……

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