見出し画像

孤独になれた魔女は愛を知らない

 僕の母親はジプシーだった。ゆえに安住の地はなく、家という概念を持たない生活をしてきた。
 街から街へ、時には小さな村へと渡り歩く日々。そんな生活の中で、母はどこの誰とも知らない、名前すら名乗ることのなかった一夜の相手の子を産んだ。それが僕だ。
 母は快活に笑い、「あんたのパパは妖精だったのよ」という日もあれば、「あんたの父親はとある国の国王様だったの」と、ありもしない嘘を謳うように言い続けていた。いつしか僕は本当の父親を尋ねる事をしなくなった。

 僕が六歳になった頃、母に手を引かれて辿り着いたその村は疫病が流行っていた。
 さすがにこのような土地では歌も踊りも相手にされぬ。一宿限りの村として、翌朝には立ち去るつもりだった。だから母は僕に荷解きはしなくていいと言った。

 酔っ払いの男が「このままでは村が呪われて消えてしまう」と言うのが気になって、僕は耳をそばだてた。村は神の怒りだとか、魔女の呪いだとか、そうした噂が持ちきりになっているのだという。「神の怒りを鎮めるには、贄が必要だ」そう力強く言った男は、酒場で歌いながら踊る母に定められていて、僕は怖くなってしまった。

 そしてその嫌な予感は的中する。
 僕たち親子は、贄として選ばれたのだ。村に縁もゆかりもないジプシー親子。どこでのたれ死のうと誰も気にも留めない絶好の獲物だった。

 神に贄を与えれば、恐ろしい疫病が静まると、愚かにも信じた狂信者たちに捕らえられた。
 雲一つない、けれど風の冷たい星空広がる広場で、僕たち親子は四肢を縛られて吊るされた。悲鳴を上げて助けを乞う母と僕の足元には、沢山の薪がくべられた。松明を持つ男たちが、無言で僕たちを見る。その青白い顔は、これから犯す罪に震え、しかしその先の疫病が消えるかもしれないという身勝手な希望に、ぎらぎらと輝いていた。
 ついに母の足元に松明が一斉に投げ入れられた。一人の人間だけが罪とならぬよう、村の男たち全員が、母に向けて松明を投げ入れたのだ。
 耳をつんざく母の絶叫は、今も夢に出ることがある。
 人が理性を忘れて叫ぶそのさまは、人間もまた獣であったのだなと思う程、恐ろしい悲鳴であった。
 生涯忘れられぬ悪夢だ。

 燃え盛る火に生きながら焼かれる母の絶叫の傍ら、とうとう僕にも油をかけられた。
 絶え間なく叫ぶ母に対し、僕の声はうまく出なかった。あまりの恐怖に声が震え、歯ががちがちとぶつかり合う。どれほど足掻いても、縛られた四肢の戒めは固く、逃げることはできなかった。
「おかあ……さ……助け…て……」
 僕は泣いて母に助けを求め――
 最も、焼かれている母にそれが叶うはずもなく。
 松明を手にした男たちが僕に向かって来る。次は僕の番だ。僕が母と同じように焼かれる番だ。
 僕は最後に絶叫した。

――やれやれ、相も変わらず人間の愚かしく恐ろしいことよ。

 丁度夜空から声が降ってきたのは、今まさに火をつけられようとしていたその時だった。

 闇よりも漆黒の長い髪、黒いドレスを纏うその女は宙に浮き、やたら唇の赤だけが鮮烈に見えた。
 村人たちが口々に「魔女だ」「やはり魔女の呪いだ」と叫ぶ中、魔女は黒い爪をはやした白い指で僕の頬を撫でると、うっすらと笑うように目細めた。

「おまえの母はもう助からない。けれどおまえ一人なら助けてやれる。どうする?」

 父もなく帰る家もない。なにより僕に一人で生きるすべなどない。
 自分の世界の中心にいた母を亡くした僕に、これから一人で生きていくことは想像を絶する苦難しかない。例え非業の死を迎えようとも、ここで死んだ方が楽になれるのかもしれない。
 けれども僕はそんな先の絶望的な未来よりも、今もまだ燃え盛り、人の形を残してはいるけれど、母の面影もないそれを見ていたくはなかった。

 怖かった。
 
 かつて母だったそれが、直視できぬ程惨たらしくなっていくのを見るのが。
 このままだと、次にそうなるのが自分だということも。

「……助けて」

 漆黒の魔女は目を細めた。鍬や鋤を持ち、魔女を殺せと叫ぶ人たちに彼女が手を向けたかと思うと、それまで母を燃やしていた炎がまるで意思のある動物であるかのように、母の遺体から分離し、村人たちに襲いかかる。蜘蛛の子を散らすように男たちが逃げて行く。

 魔女が指を鳴らすと僕を縛り上げていた縄が切れ、僕は下へと落とされ……
 その衝撃を予想して目をつぶったが一向にそれは訪れず、そろそろを目を開くと僕の身体は宙に浮き、魔女の腕の中にすっぽりと収まった。
 彼女は母とは違う匂いがした。それは蠱惑的で、花のように匂いたちながらもどれとも似つかず、例えようのないいい香りがした。幼いながらも僕はその香りにあてられてクラクラした。
 間近で見た魔女の瞳は琥珀色をしていた。それがあまりにも美しすぎて僕は魅入った。
「きれい……」
 柔らかな頬に手を滑らせ、もっと間近で見たくて顔を寄せると魔女は赤い唇をにぃっと吊り上げて笑った。
「そうか、それはよかった」

 そうして僕は魔女に連れ去られた。人里離れ、人の身でありながら人の理を外れた世界の住民になった。

――あれから十二年。

 魔女は相変わらず美しいままだ。闇色の髪に陶磁器のような白い肌。琥珀色の瞳に赤い唇。
 相も変わらず甘くて蠱惑的な香りを身にまとい、僕の心を翻弄する。

 彼女に拾われたときはもう無我夢中でいたが、気持ちが落ち着き始めると魔女に連れ浚われたのだという不安と、母を人の手により焼き殺されたのだという絶望で、日々泣いて過ごしていた。魔女はそんな自分を知ってか知らずか、泣いている時は僕から距離をとり、僕が泣き疲れて夢うつつとまどろんでいる頃に僕の寝顔を確認し、時折、本当に時折、そっと僕の頭を撫でてくれた。
 その感触を僕は今も忘れない。

 今の彼女は僕の命の恩人であり、薬草の師であり、狩りの師であり、母であり……

――愛すべき一人の女性だ。

 僕はいつまで彼女の元にいられるのだろうか?
 僕は人間の子供で、それ故に成長した。いつか僕は彼女の隣に並んでいても見劣りのない男になれるだろう。けれどその時は短く、僕は更に年を重ね、いつかは彼女を置いて老いていく。
 僕はそれを思うと恐ろしくてたまらない。

 どうして僕は人間なのだろう?
 魔の者として生まれたなら、彼女と共に生きていけるのに。
 けれど僕が人間だったからこそ、僕は出会えた。決してそれは幸福な出会いではなかったけれど。

「もうそろそろ考え直したかい?」

 魔女は僕に名前を明かさなかった。だから僕は今も彼女の名を口にすることができないままだ。そして彼女もまた僕の名を呼ぶことはなかった。名に宿る力に干渉してしまうからだという。
 魔女は僕が成人したら、人の世に帰れと言う。そのために生きて行く術として、薬草の知識を与えたのだから、きっと一人でも生きていけるからと。

 あぁ、この人は何もわかってはいない。

 僕はあの恐ろしい夜に、この人に命を救われたその日から、もう魂ごと魔女のものになってしまったというに。
 離れたら、生きていけない。
 そう思う程に、愛しているというのに。

「考え直さないよ。僕はあの日から、あなたのものだ」
「やれやれ、面倒くさいねぇ、人間という奴は」

 孤独になれた魔女は愛を知らない。それは長い年月を生き続ける彼女の、孤独から身を守る防衛手段なのかもしれない。愛する者を失い続けることのないようにという。

 だから僕の愛は魔女には伝わらない。それでも僕は愛している。

 気まぐれで僕を助けたこの漆黒の魔女を。


孤独に慣れた魔女は愛を知らない ―完結ー

#小説 #短編 #ファンタジー #読み切り

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?