天体観測

これは、僕が目的を忘れて過ごした1ヶ月半の話。

悩み

もう社会人になって3ヶ月目。
4月〜5月の僕には悩みがあった。

「3年後どうなりたい?」

この問いに対して、納得できる答えが出せずにいた。
マネージャーとの面談では、「No1になりたい」「マネージャーになりたい」と無難な答えを返していた。

心も燃えない、ただの社交辞令。
足枷でしかなかった。

就活の時も、同じような質問になかなか答えられずに悩んだ経験があった。
「3年後なんて分からんやろ。」が、素直な気持ちだった。

とはいえ目標を立てる重要さは理解している。
僕という人間は目標に向かって走っていく生き物だと思っているし、目標のない日々ほどつまらないものはないのではないか。

僕は、3年後からの逆算を怠っているのか。
本当に3年後から逆算した目標に燃えない人間なのか。

自分では分からなくて色んな人の話を聞いたり、本を読んだ。

ある友人は起業するためにあれしてこれして。と具体的な道筋を話してくれた。
ある本は、将来への道筋を立てないことは愚かなことだ。と語っていた。

僕の悩みは解決するどころか深まっていった。

燃えるような感情や価値観の共鳴振動をガソリンとエンジンに生きる僕にとって、やけに空虚さが目立つ日々は苦痛でしかなかった。

ある日、コーチングを学んでいる友人に相談してみた。
彼は、「納得もしていない目標を立てる必要は全くない。むしろ紘一には、自分らしく輝くことを自分なりに突き詰めていくことが合っているのではないか。」と言ってくれた。
彼は目的を忘れず、その都度必要なことと向き合い、瞬間を楽しめばいいのではないかと伝えてくれた。

僕は救われた気持ちになった。
今までの僕は、右利きなのに左手で文字を書いているようなものだった。
右利きならば右手で文字を書く方が、速いし綺麗なのは自明だ。

未来に興味はない

僕は3年後に"興味がない"人間だった。
3年後のために今頑張る。というよりは、今を最高の自分でい続けるために頑張る。の方がしっくりくる。
語弊が生まれそうなので詳しく書くと、3年後の自分に対して、なるようになってほしいと願うし、きっとなるようにすると確信しているのだ。
今の自分が最高であって欲しいし、今の自分を基盤に未来はそれを進化させ続けたい。
より良い自分になりたい。ただそれだけ。
3年後の自分は、あくまでも今の延長線上でしかないとしか思えなかった。
だから、具体的に変わった姿をイメージするのが苦痛だった。
何より、”今”、一番楽しいと思いたかった。

そして、目標と目的を誤って理解していたのだった。
目標を答えろと言われる場面が多すぎて、目的を完全に忘れていた。
目的が僕にとって何よりも大切で、大学時代に散々必要性を理解していたのに。

たった1文字違いの言葉だけど、この違いが大きかった。

例えば、僕が今、サッカー選手になりたい高校生だとする。
「サッカー選手になる。」という大きな夢を掲げたら、その日、その3ヶ月を1番サッカー選手になれそうな方法に本気で打ち込むのだ。
ただ、苦しい時に「サッカー選手になりたい。」とは思わず、僕は「もっと上手くなりたい。」「明日の試合で一番点を取りたい」そう思うはずだ。

つまり、目標は「サッカー選手になる」だが、目的は「サッカーが上手くなりたい」なのだ。
サッカーが上手くなった。と言えるための1つの指標が、サッカー選手になること。なのだ。
サッカーを上手くなろうとし続ける人であること。
これこそが僕にとって重要なことだ。

強豪の大学に進学するのがいいと思ったらそうなるように頑張るだろうし、高卒でプロテストを受けるのがいいと思ったらそうするだろう。

やるべきことをやる。やりたいことをやる。以外に出来ることはないのだ。
ただ、僕は、サッカー選手になった自分が見てみたいだけで、
サッカー選手になれなかったらなれなかったで、サッカー選手になるために努力をした自分として、他の場所で輝こうとするだろう。
今もまさにそうなのだが。

そして今

今の僕の目的は「カッコいい男になること」であり、そこに対して多方面からアプローチしている最中だ。
キャリアに関連したもので言うと、カッコいい人間になるために、「仕事で成果をあげれる人」になる。という目標がある。

具体的にどうなのかは分からない。
「3年後にマネージャーになる。」かもしれないし、「トップセールスになる。」かもしれない。
でも、「どんな部門で?」「何ができる人?」「いつまでに?」
と聞かれると辛い。
目標の解像度を上げようとすると、拒否反応が出る。
まだ見えない未来を見ようとすることが極端に苦手で、「今はこう思ってるけど、1年後はどうやろうね〜。」が関の山だ。

なぜか。
僕はその都度やりたいことにのめり込むからだ。
その瞬間にやりたいことをやって、行き着いた先が未来の僕。
今いる場所で、今考えられる、今できる最大限のことをやる。
目的に沿って行動しているから、目的地に向かわなくなることはない。

けど、当初決めた目標達成に必要ではないことをやりたくなってしまったら、やらずにはいられないのだ。
この寄り道こそが深みを生むと思ってる。
その都度やりたいことで、「上に行きたい。」「もっと出来るようになりたい。」と思うのが僕の性格だ。
これからも、常にやらなければいけないことを高いレベルでやろうとするだろうし、逆に言うと、僕にはこれしか出来ない。

僕だって今マネージャーになりたいと思っているし、向いているとも思う。
そのために必要なスキルや成果はある。
ただ、そのスキルや成果を得るために努力する過程で、「マネージャーになりたいんだろ頑張れよ。」という言葉は浮かんでこないはずだ。
きっと「ここやり切ったらカッコいいな。」とか思うはずだ。
やっぱり目的をきっちり認識する方が、心燃える日々を過ごせそうだと思いませんか?

とはいえ、目的のために3年後に転職したいからと言って、今からプログラミングを勉強したりは出来ない。
プログラミングが必要になったり、出来る様になりたいと思った時に勉強するのだ。
高校3年生になったら受験があるのは知っていたけど、高校1年生から勉強はやらなかったアレと一緒。
「したい」が現れるまでは分かっていても手をつけられない。
でも僕は、そんな僕の未完成さを愛している。
それは、未来の僕にそれが必要になったり、「したい」と思ったら一生懸命努力することが分かっているからだ。

見えないものを見ようとすること

近頃は目標を立てることが流行なのか、目標を立てるための自己分析や1on1が増えているような気がしている。
これ自体はすごくいいと思う。
ただ、手段が目的化していないか。
目標を立てることが目的になっていないだろうか。
目標を立てる目的は充実した日々を過ごすためではないのか?

これは単純な疑問なのだが、なぜそんなに3年後の姿を明確に考えようとするのか、逆に聞いてみたい。
3年前にコロナの流行を予測した人間が何人いたか?
それくらい変化する現代に生きているのに。
重要なのは、未来を精度高く予測することではなく、今と直近の未来を楽しむことじゃないのか。

好奇心旺盛で、変化が激しい時代に生きている僕は、その都度目標を再設定していくとキリがない。
ただ単に、目的のみを心に据えて、やりたいこと、やらなければならないことにのめり込むことが好きなのだ。

僕が生きたのは昨日であり、生きるのは今日で、希望があるのは明日だ。

今日は昨日よりも少しだけカッコよく、今日よりも明日は少しだけカッコよく、そう生きていく方が毎日楽しそうじゃないか。

目標を掲げるよりも、目的を掲げて生きる方がいい。
目標の解像度を上げるより、ぼんやり見える目的を見ようとした方がいい。
目的は到達地点を示すだけで、道筋までは決めないから、だいぶ心が楽になる。

きっと僕の最終目的は達成されないだろう。
ヴィジョナリーな僕は、常により良い目的が浮かんでくるからだ。
でもそれでいい。
目的は僕を動かすものなのだから、死ぬまで僕を引っ張っていってくれたら一緒に死ぬのだ。

情報が溢れかえっているせいか、人は未来を詳細に予測したがる。
未来を見てきたわけでもないのに、ピシャリと道筋を決める。
確かにそうやると、人に説明がつくし、それっぽく聞こえる。

ただ、僕はもっといい自分になりたいだけなんだよね。
そのために、無理やりTO DOを増やそうとする必要はなくて、今出来ることを楽しみながらやっていきたい。
3年後の自分を綺麗にイメージはできないけど、1ヶ月後ならギリギリ見えるから、目の前の1ヶ月を常に目的とともに過ごすことにした。
幸せに生きたいなら忘れちゃいけないのは「目標」じゃなくて、「目的」だからね。

3年後を考える前に、まずは”常にどんな人間であり続けたいか”を考えるべき。
それは「常にこうありたい。」でも「こうやって死にたい。」でもいい。
目的のない目標は哀しい。

新社会人になって、「目標」「定量化」に埋もれてしまいそうな人は、目標の先にある目的を見てみてね。というお話。
なんとなくしか見えない未来の姿が毎日を充実させてくれると思うよ。

BUMP OF CHICKENの名曲が妙に染みる日曜日でした。

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