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文系院生はなぜ生まれるのか

※2021/05/27に「文系ポスドクの実務嫌い」からタイトルを変更

ごぶさたしております。高円寺です。またも「生活」に追われ、てんやわんやしていました。。あと、博士論文の書籍化のために母校の出版助成制度を活用するため、出版社の方と打ち合わせをしていました。この点については追って書ければと思います。

ある実務家との出会い

さて、今回はそもそもなぜ文系ポスドクが生まれるのか、その原因となる大問題について述べてみたいと思います。すなわち、そもそもなぜ文系院生は大学院に進学するのかを考えようと思います。

大学院進学を考えるとき、一つ印象的なエピソードがあります。私が大学院博士後期課程の2年目に、私よりも一回り年上の一人の男性が博士前期課程に進学してきました。この方は入国管理を専門とする行政書士で、私たちが通う大学院のある区内に大きな事務所を構えている経営者、一言で言えば、「実務家」でした。

当初私は、自分のようなストレートで大学院に来た人間はその方と話が合わないだろうなあと思っていました。しかし、その方はたしかに「研究」を自分のキャリア形成の「付加価値」と考える方でしたが、意外にも私とウマが合いました。それは、私が労働自体には面倒を感じる一方で、「研究は何の役に立つのだろう」と考えるタイプだったからかもしれません。出会ってからもう5年ほど経ちますが、今でもその方とは付き合いがあります。

以上の体験をヒント(?)に、以下では、人が文系大学院に進学する理由として、研究への「動機づけ」の観点から「内発的intrinsic-外発的extrinsic」(知的好奇心や探求心など内面的な動機づけが強いか、他者からの評価や賞罰などの外部からの動機づけが強いか)、そして、研究に対する「価値づけ」という観点から「自己充足的consummatry-道具的instrumental」(研究自体に意義を見出すか、研究に何らかの有用性を求めるか)という、二組のパターン変数を導入して考えてみたいと思います。組み合わせると以下の四つになるでしょう。

①研究が楽しいから(内発的×自己充足的)。これは最も理想的な文系院生ですね。このタイプは博士後期課程に進学しがちです。「研究者」としての人生設計を考えるタイプで、同時に研究者としてのキャリアを終えた後も同人誌などで仕事を続ける、「作家」タイプだと思います。「人生の謎」(マックス・ウェーバーは嫌がりそう)があり、研究それ自体にやりがいを感じていて、それに払うコストには糸目をつけないタイプの方です(逆に、「研究」を別の何かに利用することを、あまり好ましく思わないタイプでもあるかもしれません)。若手では、勉強会や研究会、読書会を主宰したりしている方が多いのではないかと思います。私にはこのタイプに当てはまる先輩・同期・後輩が、学部時代から博士後期課程まで身近にいたので、ずいぶんと励まされました。

②働きたくないから(内発的×道具的)。これは最も典型的(理想的ではない)な文系院生ではないかと思います(私はこのタイプに近い)。人文科学にも社会科学にも、「文系」ならばどの大学院にもいるのではないかと思います。知的好奇心はあるのですが、実際は「働きたくない」という否定的な動機のほうが強いタイプで、いわゆる「高等遊民(世俗的な労苦を嫌い、定職につかないで自由気ままに暮らしている人)」タイプです。このタイプは学会や研究会にはあまり出ないし、人脈作りも面倒に思うタイプです。哲学者の中島義道が好きですが、共感するだけです。ただし、実はこのタイプも博士後期課程に進学しがちです。その理由は人生の「謎」を解くため……ではなく、「大学院生」という「免罪符」を得ることで、労働へのリミットをギリギリまで引き延ばすためです(その意味で、②タイプは結果的に研究に対して「道具的」価値を見出しています)。なお、このブログは、主にこの②のタイプに向けられています

③自分のキャリアに必要だから(外発的×道具的)。こういうタイプは教育系と社会科学系(とくに経営・法学系)に多い気がします。自分のキャリア形成に必要な資格を取るためとか、自分の仕事の専門性を高めるためというように、キャリア志向が高く自分の今の仕事に何らかの付加価値を付けるために大学院に進学する「実務家」タイプです。②の「高等遊民タイプ」とは最も遠いタイプですが、実は僕が「文系ポスドクの生活/就活」というブログのテーマを思いついたのは、博士後期課程2, 3年目に、このタイプの方に出会ったからです。僕はこの方にもけっこう励まされました。やる気はあるのですが「研究」に対する価値づけが独特なので、意外にも②タイプと気が合う一方で、①のタイプの方とは話が合わなかったりします。なお、こういう方は学問に対しては外発的でも、「キャリアデザイン」に関しては「自分が面白いと思うこと」を重視している内発的な人が多いです。

④「優等生・いい子」だから(外発的×自己充足的)。このタイプは論理的にはありえますが、文系院生にはあまりいないタイプかなと思います。というのも、他者からの心理的・物質的な報酬を得ることが研究の動機になっている一方で、研究それ自体に意義を見出しているという状態は、あまり想像できないからです。ただし、「道具的」とは研究の将来の有用性に価値を見出す未来志向であるのに対して、「自己充足的」な状態とは研究それ自体に価値を見出すという意味で、基本的には現在志向です。すると、「研究をしていれば他者からの報酬もえられるし、自分もその現在に満足している」という意味では、このタイプは、義務教育期間に多く見られる「優等生」ないし「いい子」タイプと言えるかもしれません。

文系院生に欠けがちな視点――「キャリア」

以上のように、文系院生をその進学動機と研究への価値志向という点から、①「作家・研究者」タイプ、②「高等遊民」タイプ、③「実務家」タイプ、④「いい子」タイプの四つに類型化してみました。

それでは、なぜ文系院生は路頭に迷うのでしょうか。私はその原因を「キャリア」という視点に見たいと思います。

すなわち、①「作家タイプ」や④「優等生タイプ」は、だいたいの人が優秀で、さらに人脈も多いので、研究者としてトントン拍子に進んでいきます。ですから、だいたいの場合①や④が壁に当たることはありません。ただし、「研究者」としてのキャリアが何らかの理由で閉ざされた場合、「研究者」として純粋培養された分、わりと脆いです。逆に言えば、「作家」や「優等生」は研究の「道具的価値」を考えないので、自分の「武器」や「価値」に気づくことなく、「生活」のために自分を安売りする可能性があります。

他方、②の「高等遊民」タイプはたしかに研究に「道具的」価値を見出していますが、その「未来志向」はきわめて短期的・その場しのぎ的なので、それがどのように「キャリア」に結びつくかは考えていません。結果として、「高学歴無職」になるのではないかと思います。

「実務家フォビア」をやめよう

大学院への進学は、たしかに短期的には労働からの「免罪符」を得られますが、逆に、自分のほかにもありえた色々な可能性を縛ることにもなります。それに、研究の道も成果が必要なので、やはりしんどいです。②のタイプはこれからどんどん研究者として生きていくのは難しくなるでしょうし、①や④のタイプでも苦労する人が増えてくるのではないかと思います。

これに対して、「キャリア」という視点があれば、大学院での研究の仕方やテーマ設定も変わってくるのではないでしょうか。①のタイプはその優秀さを「研究者」以外のキャリアに見出す道を考えることでしょうし、②の人はそもそも大学院に来ないかもしれません。大学院に来る人が減れば、その分「文系ポスドク」は少なくなりますから、文系こそキャリア教育はしたほうがいいのではないかと切に思います。

社会学者の吉見俊哉氏は、『文系学部廃止の衝撃』(2016)の中で、「文系は役に立たない」という社会通念を批判しつつ、「文系の知」は「目的や価値の軸」を発見・創造する性質を持ち、「長期的には役に立つ」と主張しました。私はこの主張に完全に同意します。しばしば言いますが、偉大な芸術家も哲学者の多くは、その生涯は不遇であり、その価値を認められるのは死後になってからです。その意味で、「研究」の価値づけに際して「長期的なパースペクティブ」が不可欠であることはいくら強調しても足りません。

しかし同時に、そのような「学問の長期的価値」を云々できるのは吉見先生のような、ほんの一握りの「えらい」先生だということも事実です。一言で言えば、そんな悠長なことを言っている場合ではないと思ってしまいます。「生活の重み」に潰されそうな人はいるわけです。さらに、「長期的には役に立つ」と言っても、その価値を説明し、「社会」を説得する能力は、実は純粋培養された「研究者」や「高等遊民」にも、さらに「優等生」にもありません。多くの研究者は「研究ができれば幸せ」なので、計画書を書いて説明したりするのは面倒に思うと同時に、「無意味」に思うからです(「ブルシット・ジョブ」!)。僕もその一人でした。

したがって、もしも今「文系の知」を社会に開こうとするならば、そのとき必要なのは、(多くの「文系院生」が苦手とする)「実務家」がもつ、研究に対する「道具」的態度であり、「長期」的パースペクティブ(「人類史」くらいの?)だけでなく、「中期」的なパースペクティブ(「いま、ここ」の社会への視点)も必要なのではないでしょうか。そんなことを、最近は考えています。

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