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「ようこそ、妖崎あやかし法律事務所へ」第19話

 ガタンゴトンと、電車が揺れる。

 優奈の心臓は変わらず早鐘を打ち続け、全身からは冷や汗が流れ続けていた。

 湿ったブラウスが、肌に張り付く。けれどその気持ち悪さを気にしている余裕さえ、今の優奈にはなかった。

 電車の揺れに身を任せ、ただひたすらに、目的駅への到着を待つ。

「ねぇあなた、大丈夫?」

 優奈に声を掛けてきたのは、目の前の座席に座るふくよかなご婦人だった。

「え……? わ、私ですか?」
「そうよ、あなた。あなた、酷い顔色よ。体調が悪いの? ここに座りなさいな」

 と言って、婦人が席から立ち上がって譲ってくれる。優奈はそれを押し留めるように、慌てて手を振った。

「え、いえ、大丈夫です」
「そう言わず。あたしは次の駅で降りるから、遠慮せずに」
「ほ、本当に大丈夫ですから!」

 思わず声を荒げてしまう。ハッとなって車内を伺えば、何かトラブルでもあったのかと、周囲の視線が二人に突き刺さっていた。

 気まずさが優奈を襲う。

「そう? でも無理はしないでね。つらかったらいつでも言ってちょうだいね」

 けれど婦人は気を悪くした様子もなく、にこやかに微笑んで席に戻る。そのあまりにもあっさりとした引き際に、優奈の方が面食らってしまったぐらいだ。

「……ありがとうございます」

 優奈は小さく感謝を述べた。
 車内は平穏を取り戻す。

 ゴトンゴトンと、電車が揺れる。
 ドクドクと血が流れる音がする。

 その声は、座席シートの端から聞こえた。

「ねぇあの人、今一瞬、目が赤く光らなかった?」
「えーまさか。ありえなくない?」

 女子高生のそのひそひそ声に、優奈の心臓がドクンと脈打った。

 弾かれたように顔を上げると、電車の大きな窓ガラスに自分の姿が映っている。
 どこか幼さの残る顔に、歳の割に不釣り合いなパンツスーツ姿。

 そこにいたのは、いつも通りの美咲優奈だった。けれど――

 人混みの間から見えたその姿が半分透けていたのは、見間違えではない。

「……っ」

 優奈は逃げ出すように、別の車両へ向かった。

 屍鬼事件――その言葉が、脳裏に浮かぶ。

 優奈は、私は、人を、人を――

「はぁ、はぁ……」

 いつの頃からか。歩き慣れた住宅街を、足早に歩いて行く。帰宅時間帯のピークもとうに過ぎ去り、行き交う人影は一つもない。

 優奈は、野々宮の死の連絡を受けた時のことを思い出していた。

 野々宮秀造の死を告げられた瞬間、優奈は着の身着のままで外へ飛び出していた。

 I県警の田口という警察官は、駅へ急ぐ優奈に淡々と告げた。

 県境を流れる時峰川の河川敷沿いで、野々宮の遺体と車が見つかったこと。遺体の損壊具合から、世間を騒がせている連続殺人事件の可能性が高いこと。現在、大家さんの協力の下、事務所の捜査をしていること。詳しい話を聞きたいから、可能であれば事務所の方に顔を出して欲しいこと。

 それらになんて返事をしたのか、優奈はよく覚えていない。ただ、駅までの道筋を確認しようと地図アプリを開こうとしたら、今しがた切ったばかりの番号から、おびただしい数の不在着信があったのは覚えている。

 立ち寄ったことのない駅から電車に乗り、いつもの駅で乗り換えて、電車に揺られながら野々宮法律事務所へと急ぐ。

 ――早く、一分一秒でも、早く。

「おねーさん、どうしたの? お祭りにでもいくの?」

 その焦りを遮ったのは、派手な見た目と軽薄な口調の男だった。

 浴衣姿の優奈が珍しく、目立ったのだろう。ナンパだった。いくら無視してもしつこく話しかけてくるものだから、優奈はとうとう苛立って、男を振り返った。

「構わないで」

 たった一言。その一言で、男は去って行く。
 諦めたか、それとも気圧されたか――あの時はそう思っていた。けれど、あの時にはきっともう、優奈は――

 歯ぎしりをして、夜の道を歩いて行く。

 あの日も優奈は、歩いていた。ローカル線を降りて、通い慣れた徒歩五分の道を。

 太陽の光って、こんなに眩しかったっけ――と。まだ五月だというのに燦々と降り注ぐ日差しが、何故だか苦しく感じた。

 そうして、吸血鬼だとかいう謎の男の元を出てから約一時間後。辿り着いた事務所には、何台もの警察車両が止まっていた。

 その非日常的な光景が、優奈の身に起こったことが現実なのだと認識させた。

 道路越しに呆然と佇む優奈を見つけて、一人の老女が駆け寄ってくる。

「あぁっ優奈ちゃん! 今までどこにいたんだい。警察の人が全然連絡が付かないって……そんな格好でどうしたんだい」
「大家さん。先生は、野々宮先生は……」

 互いに縋るように手を伸ばす。けれど震える優奈の声に、大家さんは目を伏せてしまう。たったそれだけの仕草が、事実を雄弁に語る。

 へたりと、優奈はその場に倒れ込んだ。
 そこへ、一人の刑事らしき人が駆け寄ってくる。

「美咲優奈さんですね?」

 そう尋ねた男性は、柔和な顔立ちを強張らせて敬礼を取った。

「自分はC県警の楠木帆理と申します。県境にて発生している連続殺人事件と関係があるということで、本件の捜査に当たらせていただいてます」
「あ……」

 帆理と名乗る男性が握手を求め、手を差し出す。彼のその筋張った男性らしい首筋に、何故だか目が吸い寄せられた。鼻孔を擽る甘い香りがどこからか漂ってくる。

 どこからか――彼の薄い、皮膚の下から。

 ――お腹が空いた。

「どうしました?」
「……っ!?」

 突如としてこみ上げてきた酷い空腹感に、優奈は咄嗟に両手で口元を覆った。
 心臓が、破裂しそうなほどに激しく脈打っている。

 食べたい。飲みたい。齧り付きたい。飲みたい。

 ――お腹が、空いた。

(嫌だ)

「あ、あ、あ……」

 蹲って、優奈はただひたすらに喘ぐことしか出来なかった。

 身体が言うことを効かない。指先が震えて、なのにひとりでに動き出しそうになる。
 その症状は酸欠にも似ていて、けれど違う。欲しいのは空気ではない。苦しいのは、呼吸じゃない。

 ――欲しいのは、血だ。

 優奈の犬歯が、爪が、伸びていく。長く、鋭く。獲物を狩り、肉を裂く武器のように。

「ヒッ」
「これは……」

 その様子に、大家さんが小さな悲鳴を上げて腰を抜かす。反対に帆理は平静を保って、優奈の前にしゃがみ込む。

 甘い甘い果実が、手の届く距離に、あった。

(嫌だ)

 酷い飢餓感が優奈の意識を侵していく。

(嫌だ、食べたくない)

 優奈はそれを、必死に否定する。
 それでも抗いきれず、優奈は帆理へ手を伸ばして――

「ユウ」

 あまりにも優しいその呼び声が、優奈を現実に引き戻した。

 見ればいつの間にか、優奈は通い慣れた日本家屋の前に来ていて、玄関先に、月のような一人の吸血鬼が立っていた。

 いつも通りの乱れた黒髪と、崩れた浴衣姿で。

 優奈の手から、最早持っていたことすら忘れていたケーキ箱が、滑り落ちた。

 ふらつく足取りで、優奈は新に近づく。
 新はただ優奈を見て、薄く薄く、微笑んでいた。

「わた……わたし、人を、食べたくて……血が、血が」
「大丈夫だ、落ち着け。お前は人を襲ってもいないし、食べてもいない」
「でも、でも」

 伸ばした優奈の手を、新が掬い上げる。

「ユウ」

 張り上げたわけでもないその声に、優奈はビクリと肩を震わせた。

「大丈夫だ。ゆっくり、ゆっくり息を吸って。そう。ゆっくり吐くんだ。そう、いい子だから」

 幼子をあやすようなその声に従う。けれど、

「っ!」

 突き上げてきた衝動に、堪えきれず振り上げてしまう。
 彫刻刀のように鋭利になった優奈の爪が、浴衣の袖から覗く新の手を切り裂いた。

 ツ――と、赤い液体が一筋、筋張った腕を伝って、滴り落ちる。

「あ……」

 その甘く芳醇な香りに、優奈は目眩を覚えた。

 赤いその液体――新の血から、目が離せない。

 ぽたりぽたりと血が滴る。その様子をじっと見つめて、

「飲みたいか」

 唐突に、新は言った。

「いいぞ、飲んで」

 新が腕を差し出す。けれど優奈は頭を振って、それを拒絶する。

「やだ……やだ、血なんて、飲みたくない……」

 その瞳が、新の瞳と同色の光を発した。
 新が忌々しげに新が舌打ちする。

「ちっ……やっぱり魔眼を習得してたか」

 優奈の手を掴んで押さえて、口元に腕を近づける。

「飲め。飲まないと死ぬぞ」

 だが優奈は幼子のようにいやいやをするばかりだった。その目の端に、薄らと透明な雫が浮かぶ。

「ユウ……ユウ!」

 半ば錯乱状態に陥った優奈が力任せに、腕を振り回す。
 やがて新の腕が引いて、諦めたか――と思った時だった。

 新がべろりと、自身の腕に滴った血を舐め取る。それに疑問を抱く間すらなく、


 気付けば新の唇が、優奈のそれを塞いでいた。

 噛みつくようなキスだった。

 抵抗する間もない。押しつけて、舌でこじ開けられて、唾液が混じり合う。

 反射的に新の胸を押すが、びくともしない。大きな手が優奈の頭を後ろから抱え込むように掴んでいて、身を引くことすら出来ない。

 甘い、甘い――チョコレートよりも甘い味が、口の中に広がっていった。

 やがてこくりと優奈の喉が上下に動いて、二人の唾液と血が混じり合った液体が嚥下される。

 そうしてようやく、新の唇が離れた。

 渇いた身体が、急速に潤っていくようだった。あれだけ優奈を苛んでいた動悸や身体のほてりが、みるみるうちに落ち着いていく。

 ――美味しかった。

 美味しくて美味しくて、仕方がなかった。

「つっ……」

 その気持ちを認めた瞬間、目の端から透明な雫が零れた。

 涙は止め処なく溢れ、頬を伝い、口の端から口内へ落ちてくる。
 その塩辛さは奇しくも、先程飲んだ血の甘さを際立たせた。

 新がそっと優奈の肩を抱き寄せる。優奈は声を上げて、ただひたすらに泣いた。

 優奈はもう、人間ではなかった。

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