「ようこそ、妖崎あやかし法律事務所へ」第23話
やかんを火にかけながら、流し台で急須を洗う。
燃える火の音と流れる水の音を聞きながら、優奈は考えていた。
優奈を襲ったのは吸血鬼で間違いない。ただその吸血鬼が真垣だとすると、不完全ながらもアリバイがあって一連の事件の犯人だとは断定できない。任意同行を求めることも可能だが、証言の裏付けもない。更に物証もないとなると、嫌疑を否認されればそれまでだろう。
(何か……)
なんだか、引っかかるような気がした。
喉のところに何かが詰まって、飲み込めない感覚。まるで、小魚の骨でも引っかかった時のよう。
この違和感は、何だろう。
漠然とそう思った時、やかんの蓋がカタカタと激しく動き出した。お湯が沸いたのだ。このやかんは笛吹きがついていないため、うっかりすると吹きこぼれしてしまう。
優奈は慌てて火を止めた。
急須に茶葉を入れ、新しい湯飲みにお湯を注ぐ。それから湯飲みに入れたお茶を急須に移し替えて、蓋。茶葉を蒸らしていく。
紅茶や焙じ茶は熱湯で淹れた方が美味しいというが、緑茶の場合はあまり高い温度で淹れると苦味や渋みばかりが出て、甘みがあまり抽出されない。先に湯飲みにお湯を入れるのは、カップを温めるためと、お湯の温度を下げる目的がある。
ちなみに新のマグカップには適当量のインスタントコーヒーを入れて、やかんからダイレクトに熱湯を注いだ。
と、茶葉を蒸らしている間に優奈は思い出す。そういえば、昨日帆理に貰ったケーキがまだあったはずだ。緑茶にケーキというのも邪道かも知れないが、帆理は確か洋菓子が好きだったはず。昨日のでちょっと申し訳ないけど、折角だから食べてもらおう。
そう思って冷蔵庫を開け――
「あ……」
綺麗なケーキの隣の皿。不格好に崩れたケーキの載った皿を見つけ、優奈は固まった。
そうだ。ケーキは四つ。半分は優奈が持ち帰った。けれど、途中で落としてしまったのだ。
――真垣と遭って。
何故だか唐突に、にこりと微笑んだ真垣綾子の青白い顔が浮かんだ。
「? どうした、ユウ?」
冷蔵庫を開いたまま固まった優奈に、新が怪訝そうに声を掛ける。
「新さん……」
庫内を見たまま、優奈は震える唇を動かした。
「屍鬼は吸血鬼のなり損ない……眷属化の失敗だって言いましたよね」
「そうだが」
「眷属は……主である吸血鬼意のままに操れる下僕、なんですよね」
だとしたら――だとしたら。
「屍鬼も従属するんですか?」
その問いに新と、居間にいる帆理が眉を顰めた。
「実は、昨日……会ったんです。真垣さんと」
「会っただと?」
新の声が低まる。
「どうして今まで黙ってた」
それは責めているというよりは、苛立っているような声だった。
「忘れてたんです! 昨日は記憶が戻ってそれどころじゃなかったし……それに真垣さんとはほんの数分立ち話で挨拶をしたぐらいですし」
「なんともなかった?」
「は、はい……駅で、人目もありましたし……ただ、その時、一緒に居た奥さんが、なんだか前と雰囲気が違う気がしたんです。青白いほど色白で、静かににっこりと笑うだけで……そう――」
あれはなんだか――
「なんだか、死体が微笑んでるみたいだったんです」
ハッとしたように、新と帆理が顔を見合わせる。
「屍鬼……眷属、従属……」
新は口元に手を当てたと思うと、ぶつぶつと独り言と共に考え込み始めた。その表情は、今まで見たことがないほど怖い顔をしている。
立ち上がった帆理が、新に尋ねた。
「どうなんだ?」
「試したこともないし、試そうと思った事もない。だが……理論上は不可能じゃない。眷属への命令は、魔眼の暗示とは違う。科学的に言うなら、魔眼が光パターンによる催眠術なら、眷属を操ることは血を操作することに近い。こういう風に」
と言って新は、掲げた手の平の上にコウモリを作り出してみせる。数日前に見せてもらった、吸血鬼の能力の一つ――分身体だ。
「これは直接血を操って作ってる。眷属も同じだ。眷属の中に流し込んだ自分の血を操作してる感覚に近い」
「なら――」
「あぁそうだ。クソッ」
悪態と共に、新がぐしゃぐしゃと頭を掻く。
「おおよそお前の想像通りだよ。真垣綾子はおそらく死んでる」
半ば予想していた、けれどあって欲しくなかった結論に、優奈は言葉を失った。
「おそらく、そもそもの始まりが、真垣綾子の殺害だった。死んで自分の眷属(人形)になるんだ。離婚する必要なんてなくなる。そこからどうして急に、人を襲い始めたかは分からないが――いや」
早口に語る。脳内ではいくつもの思考が並行に、高速で回り続けているのだろう。自身の言葉を否定して、新は続ける。
「真垣は、真垣綾子殺害の前後で、吸血鬼として目覚めた可能性が高い」
「目覚めた?」
その言い方に、優奈は引っかかりを覚える。
「前に言っただろ。俺や鬼藤の鬼娘みたいな存在は人間に近い。天狗も当てはまりはするが……一部の妖は人との間に子を成すことができるんだ。ただし、人と交われば交わるほど、世代を重ねるほどに、妖としての力や特徴は薄くなる傾向にある。おそらく真垣もそのタイプだ」
「吸血鬼の……末裔ってことですか?」
「多分な。今まではただの人間として生きていた。それがなんらかのきっかけで、吸血鬼としての特性が目覚めたんだ。だとしたら急に事件を起こした理由も合点がいく。おそらくやつは吸血衝動をコントロールできていない」
吸血鬼になりたての、優奈の時のように。
「――屍鬼事件の被害者の内、何人かはおそらく、綾子の餌だ。屍鬼も身体を維持するためには、人の血が必要になる。実行犯が真垣じゃないなら、アリバイが成立してて当然だ」
要は、複数犯による犯行だったということだ。
ただしその犯人たちは、たった一人の黒幕によって完全に操作された、ただの傀儡だ。
「――帆理」
新が帆理を見る。
「今すぐ真垣綾子の所在を確認しろ」
「言われなくても」
その視線に、帆理は力強く頷いた。
数十分後、優奈の自宅マンション前。
「それじゃ帆理さん、送ってくれてありがとうございました」
一度捜査本部に戻る。そう言って事務所を出る帆理に便乗し送ってもらった優奈は、助手席の窓から車の中を覗き込んで、そうお礼を言った。
昨夜は、風呂には入ったが服も下着もそのまま。そこで話が落ち着いたところで、一度帰宅することにしたのだ。
送ってくれたのは帆理の申し出だった。駅まででいいとも言ったのだが、方向は一緒だからと結局、押し切られてしまった。
「本当に迎えに来なくて大丈夫?」
シートベルトをしたまま、助手席側に身を乗り出して、帆理が尋ねる。
「はい。大丈夫ですよ、ただ記憶が戻っただけですから。心配してくれてありがとうございます」
「うーん、そういうことじゃないんだけどな」
「?」
何故だか眉尻を下げて困った顔をする帆理に、優奈は首を傾げた。
チカチカと、ハザードランプの点滅音だけが、二人の間に流れる。
「……あのね、こんな時だけど、ありがとう」
ややあって唐突に、そんなことを口にした帆理に、やはり優奈は首を傾げるしかなかった。
優奈の方を見ずに、帆理は言った。
「実は新も容疑者の一人だったんだ」
優奈は思わず息を呑んだ。呑んでから、気付く。
「犯人が吸血鬼の可能性が浮上した時点でね」
それもそうだろう、と。
「もちろん、あいつはそんなことするような奴じゃない。昔から楠木家(ウチ)や警察とも繋がりもあって、人外絡みの厄介事解決に力を貸してきた実績もある。アリバイもある。それでも、疑う人間はゼロじゃなかったんだ」
でも、と帆理は言った。車のナビに表示されたデジタル時計が、一分進んだ。
「優奈ちゃんが襲われて、あいつの眷属として蘇った時、容疑者から外れた。それまでの殺人や屍鬼化と、優奈ちゃんの眷属化っていう新の行動が、あまりにも行動が結びつかなかったからね。まぁ防犯カメラ諸々で、アリバイが立証されたってのもあるけど」
「…………」
「それで優奈ちゃんは人生を変えられちゃったんだから、ありがとうっていうのも、変だし……なんだろう。ごめん」
言葉が見つからなかったのだろう。最終的に謝罪をするしかない帆理に、
「変えられてないです」
優奈ははっきりと否定を口にした。
帆理が目を丸くして、優奈を見る。
「私は、私のままですから」
真っ直ぐに帆理を見て、毅然と。
微笑んだ優奈を、帆理をしばらく呆気にとられたように見つめ返していた。
しかしふと表情を和らげると、ハザードランプを消して、優奈に向き直る。
そこにはいつも事務所にお菓子を持ってきてくれる啓治さんの、穏やかな顔があった。
「じゃあ調査結果が分かり次第、新のところに連絡を入れるね」
「はい、よろしくお願いします」
滑るように、車が走り去っていく。
その姿が見えなくなるまで見送って、優奈はマンションへと入っていった。
一方その頃――
「で、俺にお前の弁護をして欲しいって?」
新は事務所にやってきたその客と相対していた。
いつも通りに客間へと通し、けれど座卓の上には茶一つない。出すつもりもない。
「えぇ、だってこの事務所は――あなたは『人ならざるモノ』専門の弁護士なんですよね?」
客――真垣陽一は礼儀正しく正座をし、にこりと笑う。
「でしたらぜひ、僕の味方をしてくれますよね?」
その申し出に、新もまたにやりと、口の端を吊り上げた。
日も随分と傾いて来た頃、優奈は再び妖崎あやかし法律事務所を訪れた。
「ふう……」
額に滲んだ汗を拭い、インターホンを押そうとする。
「あれ……?」
そこで優奈は、玄関に少し隙間が空いていることに気付いた。
――鍵がかかっていない。
何かと物騒なこのご時世。在宅であっても、常に玄関や不要な窓の鍵は常に閉めるようにしていた。主が人間ではないから、万が一、泥棒や強盗が入っても返り討ちだとは思うが――
(新さん――)
急な胸騒ぎに狩られ、優奈は慌てて中に上がった。
パンプスを脱ぎ捨て、いつものように台所に向かう。その途中で――
「新さんっ!?」
客間と居間を隔てる襖を押し倒して、浴衣姿の新が倒れ伏していた。顔の周りに広がるのは血溜まり。鞄を放り投げて駆け寄り、
「ヒッ……」
上擦った悲鳴を上げ、優奈はその場に尻餅をつく。
新が、死んでいた。
血を吸った畳と襖の上にうつ伏せになり、ピクリとも動かない。その整った顔は、原型が分からないほどに潰されている。
――ぐちゃぐちゃだった。
「あ、あらた、さん……」
それでも、なんとか手を伸ばそうとしたその時。
重い衝撃が後頭部を襲い、優奈の意識は闇に呑まれた。
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