「ようこそ、妖崎あやかし法律事務所へ」第26話
キラキラと、細雪のようにガラスが舞う。
頭上から降ってきたその一言と共に、優奈を拘束していた綾子の身体が吹き飛んだ。
綾子と共に、拘束されていた優奈も地面を転がる。強かにコンクリートに身体を打ち付けるが、綾子の拘束は外れた。
「優奈さん!」
真垣が優奈を呼ぶ。優奈が自由になったことへの焦りなのか、それとも身を案じてのことなのか――定かではないが、真垣は一歩踏み出し、しかし駆け寄ることは敵わなかった。
真垣が頭上を見上げ、その視線の先を優奈も追う。
そこに、一人の吸血鬼が浮かんでいた。
いつか見た黒の着流しに、同系色の羽織。その背でゆったりと羽ばたく、コウモリの如き一対の漆黒の翼。
割れた倉庫の窓ガラスの向こう――更待月の浮かぶ夏空を背に、妖崎新が優奈たちを見下ろしていた。
「な、なんで生きて……死んだんじゃ……」
真垣の発した困惑は、奇しくも優奈の思考と同じだった。
新は不愉快そうに眉根を寄せる。
「あぁ? お前みたいな交じり者と一緒にすんな。こちとら生まれた時からピュアっピュアの吸血鬼やってんだよ。頭潰されたぐらいで死ぬわけないだろ。んあぁ、まぁちょっと記憶が飛んでるけどな。さすがに脳までやられると、記憶がぐちゃぐちゃする」
「あ、新さん……」
地上に降り立ち翼を仕舞った新は、寝起きのように肩を鳴らす。その姿に、優奈は安堵の息を零した。しかしそんな優奈の腕を、真垣が乱暴に掴む。
「っ、くそ!」
「きゃっ」
力任せに立ち上がらせ、首に腕を回して背後から拘束する。爪先立ち状態になった優奈の首に、鋭く伸びた真垣の爪が押し当てられた。
「人質を取ったつもりか? やめとけやめとけ。さっきも見ただろうが、そいつはもう並の怪我じゃ傷すら残らん。断言してもいいが、お荷物になるだけだぞ」
「だ、黙れ! どこまでも僕の邪魔をして……! 見たっ、て……な、何故お前がここにいる!」
「何故って……なぁ?」
新が優奈を流し目に見て、怪しく微笑む。こんな時なのに、心臓がドキリと鳴った。
「あっちこっちから頼まれ事しちまったからな。それに俺は、自分の行動には最後まで責任を持つタイプなんだ。――お前みたいに、なり損ないの眷属を放り出すクズと違ってな」
バサバサと音を立てて、どこからか一匹のコウモリが飛んでくる。新の手にぶら下がったコウモリ――その小さな胴体には、手の平に収まりそうなスティック型の端末がくくりつけられていた。
「これ、なーんだ?」
にやりと、楽しそうに新は笑う。
対照的に、真垣は愕然として声を震わせた。
「ま、まさか……全て……」
新が端末を操作する。
『まさか、それで……先生を?』
『えぇそうですよ。四月二十九日……野々宮先生に事務所まで呼ばれましてね――』
倉庫に、先程交わした優奈と真垣の会話が反響した。
――ボイスレコーダー。
「ユウの荷物にGPS付きの盗聴器を仕込んでたみたいだが、残念だがこっちには、機械なんかより余程便利な力があるんだよ。つか、気付いてないと思ったか。んなもんユウが死んだ日に、とっくに鞄から見つけてるっての」
コウモリが黒い水と化して、しゅるしゅると新の手の平に消える。その手に残ったのは、小さなボイスレコーダーだけだった。
優奈はわなわなと震える唇を動かした。
「……まさか新さん、ずっと私のこと付けて……?」
「ん? まぁな。そいつ随分とお前に執心そうだったし、接触してくる可能性があるかもってことでな。安心しろ。帆理の了解は得ている」
意識を確かめるように首の後ろを擦りながら、なんてことないように新は答える。
優奈は沸騰しそうになった。
あの帆理が――純朴そうな警察官が、そんなストーカーみたいな真似を許可するとは到底信じられなかった。いや、信じたくない。――だが、今はそれよりも確かめるべきことがある。
「……いつからです?」
「…………」
新は黙ってボイスレコーダーを袖口に仕舞う。
「ちょっ、いつからストーカーしてたんです!?」
「ストーカーじゃねぇ、身辺警護と言え」
「単なる囮じゃないですか!!」
優奈は真っ赤になった顔を両手で覆った。コウモリは新の分身、触覚のみならず、視覚も聴覚も新と共有している。つまり――
(お風呂で歌ってた鼻歌も聴かれてたし、海外ドラマ見て号泣してたのも全部把握されてたってこと!?)
泣きたい。穴があったら入りたい。今すぐこの場から消えたくて仕方がなかった。
「っ!?」
グッと真垣の腕で首を絞められ、優奈は現実に引き戻される。
「……ふざけやがって」
呻くような声と共に、新を屍鬼と化した被害者女性たちが取り囲んだ。
「ほう、ずいぶんな数だな。屍鬼――眷属を操る力はまぁまぁ強いと見た。遺伝か?」
「余裕ぶるのも大概にした方がいいですよ。意識がないとはいえ、『無茶の効く身体』を持った相手。それもこれだけの数を前に、丸腰のあなたに何が出来ますか?」
ひとりごちる新に、真垣が射貫くような目を向ける。その頬を、汗が一筋滑り落ちる。
新は、応えなかった。
「殺せ!!」
刹那だった。
一斉に新へと飛びかかる屍鬼に、優奈が悲鳴を上げる間もない。
新の影がまるで生き物のように伸びて、襲いかかろうとした屍鬼たちの心臓を串刺しにする。と思った次の瞬間、影は身の内から弾け、心臓を完膚なきまでに破壊した。
全ての屍鬼が、命の核を失い、地に倒れ伏す。動くことは、もうない。
「血の力っていうのは、こういう風に使うんだよ、ガキ」
影――否、血。
口の端を吊り上げて、新は真垣を鼻で笑った。
非現実的な一瞬の攻防に、優奈は呆然とする。おそらく、先程綾子を吹き飛ばしたのも、この力だろう。
だが優奈にぼうっとする時間は与えられなかった。
「くそ……くそ、くそ! この化け物が!」
真垣が悪態を吐き捨てる。次の瞬間、真垣が優奈の首筋に齧りついていた。
牙が皮膚を穿って、血が溢れ出す感覚。生暖かい口がじゅるりと、それを舐め取るように啜る。
「ひ……」
身体が、凍り付いたように固まった。新が不意を突かれたように、ハッとなる。
嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、気持ち悪い……!
拒絶するその意志に反して、全ての神経が首元に集中したかのように、血を啜られる感覚以外がなくなっていく。
なんとか逃れようと、首に回された真垣の腕を掴むが力が入らない。身体が動かない。
(やだ……)
生理的嫌悪感に涙が滲んでくる。
怖い。怖い。怖い。
新が眉を顰め、半歩踏み出しかける。けれど、彼がそれ以上動くことはない。
(助けて……助けて、新さん……!)
涙が零れ落ちかけた、その瞬間だった。
「五十歩百歩だよ、俺も、お前も」
諦念にも似た言葉が吐き捨てられると共に、突然、真垣が優奈から口を離し、床に膝を突いた。
「ガッ、ア……!」
心臓を抑えて、蹲る。震える口の端からは、血と共に唾液が零れ落ちていた。
優奈は咄嗟に逃げだし、新の元へ駆ける。
そんな優奈を背に隠し、悠然と真垣に歩み寄りながら、新は言った。
「どうだ、ユウの血の味は? 刺激的な味がするだろ?」
薄らと笑みを浮かべ、真垣を見下ろし問う。
ゾッとするような、冷たい笑みだった。
「お前、優奈さんに何をした……」
息も絶え絶えに、地に爪を立てながら真垣が呻く。
そんな真垣を、新は面白おかしそうに笑った。
「何も?」
それから一拍おいて、優奈の腰を引き寄せる。
「強いて言うなら、こいつはもう俺の血を分けた、俺の眷属(もの)だってことだ」
カッと真垣の目に怒気が宿った。けれど、手を出すほどの余力はない。
「吸血鬼の血は劇薬だ。それこそ身体を作り替えるほど。だから吸血鬼にする時は、相手の血を抜き取って、それこそ殺すまで血を抜かなきゃいけない。そこに吸血鬼の血を飲ませる。じゃないと、人間の血と吸血鬼の血が拒否反応を起こして、『なりそこない』にしかならない。――そこの女たちみたいな」
「ちょ、ちょっと、新さん……」
顔が近かった。優奈は離れようと新の肩を押すが、びくともしない。それどころか新は一層身体を密着させてくる。まるで真垣に見せつけるかのようだった。
「ま、それでも失敗する時は失敗する。ユウは上手く適合できたみたいだが、お前みたいな交じり者には無理だったみたいだな」
「どういう……」
「馬鹿は察しも悪いな。――つまり、だ」
「ひゃっ」
新が優奈のこめかみに唇を寄せる。
「ユウの身体の半分は、もう俺の血で出来てるも同義ってことだ」
それはまるで、口づけのようだった。
新の発言は、考えてみれば当然とも言えた。眷属は主に従わざるを得ない――主は眷属を操ることができる。それは血を操るのも同義だと言っていた。ならば優奈の中に、新の血が存在していなくてはおかしい。
なんとなく理解はしていたけど、改めて突きつけられたその事実に、優奈の顔が熱くなる。
「どうした? ユウ。顔が赤いぞ」
「無駄に夜目を利かせないで下さい! なんでもないです!」
ぐいぐいと新を遠ざけようとする。そんな優奈を見て、新はにんまりと笑みを深めた。
「さてさて」
新が真垣を見下ろす。
「動きも封じたことだし、もういいだろ」
遠くからは、何台ものパトカーのサイレンが聞こえていた。
「この、ふざけやがって!」
最期の力を振り絞るかのように、真垣が新に飛びかかった。しかし無造作に振り上げた新の足先が、真垣の顎に綺麗に入る。真性吸血鬼の膂力で蹴り飛ばされた真垣は倉庫の床を転がり、ガラクタにぶつかって止まった。
倉庫内に警察が流れ込んで来たのは、直後だった。
厳重に防備を固めた面々が、一直線に真垣に向かっていく。
「優奈ちゃん!」
続いて、スーツ姿の帆理がやって来た。
「帆理さん!」
「大丈夫!? 無事!? 怪我は!?」
矢継ぎ早に質問するその勢いに気圧されながら、優奈は頷く。
「は、はい……特には……」
「よかった……本当にごめん、被害者だっていうのに、囮にさせるような真似をして」
沈痛な面持ちで、帆理は頭を下げた。直角に腰を折る帆理に、優奈はふるふると頭を振る。
「帆理さんが悪いわけじゃありません。それにどうせ、言い出しっぺは新さんでしょうし――」
「どうせってなんだ」
「違うんですか?」
「……違わないが」
「それに、その……私の身体ももう吸血鬼……なので、少しの怪我だったら……」
言外に問題ないと述べる優奈。それから帆理は優奈の首筋に残った、牙の穴がくっきりと残った真垣の噛み跡を見つけ――
「あんのクソ野郎が……!」
鬼のような形相で、帆理は真垣を振り返った。初めて目の当たりにする帆理の暴言と表情に、優奈は目を白黒させる。
嘆息一つ。優奈のから身を離した新は袖からボイスレコーダーを取り出し、半目で帆理を見た。
「俺への心配も少しはしろ。これでも身体張ったんだぞ。お前らが吸血鬼相手じゃ怖い~とか言うから手伝ってやったのに」
「頭潰されても死なない奴をどうやって心配しろと。それに身体張ったのは分身を作っただけだろ。あとそういう協力要請の仕方はしてない」
帆理がボイスレコーダーを受け取る。
その背の向こうで、取り押さえられた真垣が離せだ何だと叫び続けていた。しかし、さすがの吸血鬼の筋力を持ってしても、屈強な大の男、数人がかりでは手も足も出ない。
真垣が倉庫の外へ連行されていき、手の空いた警察官たちが屍鬼を回収していく。
厳重に、細心の注意を払って。
けれど彼女たちが動くことは、もう二度とない。
遺体袋に詰められていく女性たちを向いて、優奈は静かに手を合わせた。
それから、現場の指揮に追われる帆理と別れ、優奈と新は外へ出た。
夜風が砂まみれになった髪を攫っていく。その予想外の冷たさに身を震わせると、新がそっと羽織を肩に掛けてくれた。
ほんのりと、温かい。
視線を上げると、頭上には朧月が輝いていた。
「ふあ、あ~あ」
優奈の隣で、新が変なリズムの大あくびをする。
「眠いんですか?」
夜なのにと思っていると、呆れた声が返ってくる。
「お前なぁ……四六時中、分身を動かしてたんだぞ。どんだけ力使ったと思って……って分からねぇか」
「はい、分かりません」
きっぱりと答える優奈に、新は少し考える素振りをして――それから何故か、優奈の首筋を見て、
「ユウ」
ちょいちょいと、優奈を手招きした。
「? はい?」
耳を貸せ。そんな素振りを見せる新に、なんだろうと思いながら近づく。
「何です? そんな内緒話、わざわざしなくても――」
その声は、続かなかった。
新はおもむろに優奈の手を掴んだと思うとそのまま引き寄せ、無造作にその首元に噛みついた。
そこは、真垣が噛みついたところと全く同じだった。
「ひぅっ!」
思わず変な声を上げ、身を強張らせる。
新は目を閉じて、ゆっくりと静かに、優奈の血を啜る。
命が流れ出て行く感覚がした。けれど感じたのは――それだけだった。
優奈は悲鳴一つあげることを忘れ、ただ新の着物を指の先で掴むことしかできなかった。
というか、あのあのあのあの人目が警察の方々の目が!!
数秒後、最後の一滴まで堪能するように、ペロリと牙で付けた傷口を舐めてから、新は顔を上げた。それから平然と、言い放った。
「まぁまぁだな」
口の端に付いた血を、親指で舐め取って。
「ま、お前のお願い料はこれでちゃらにしてやるよ。もうちょっと肥えろ」
そんなことを言うものだから、優奈はその綺麗な横顔に、全力全開フルパワーの平手打ちを炸裂させた。
なお、吸血鬼になってから初めての全力だった。
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