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樹々の守護霊「苔の乙女」にみる妖精の光と影とは

  樹々の根元を苔がしっとりと覆っているような深い森には、いかにも何かがいそうな気配がします。緑に光る神秘的な苔は、どんな妖精が守っているのでしょうか?

版画工房フェンリル通信 第87回 2019年 小満号


(福次荒れ)

                     
 ここ富士見町の北に位置する霧が峰。その高原地帯の中心である車山には、天狗にまつわる伝説がいくつも見られます。昔、福次という男が車山で炭焼きをしていると、「福次、福次、煙たいから炭焼きをやめろ!」と天狗の声がしたと云います。それでも福次が炭焼きをやめないでいると、川が氾濫するほどの激しい雷雨となったのです。以来、急に車山の天気が荒れた時など、土地の人々は“福次荒れ”と呼んだと云います。

 ちなみに、この辺りでは天狗のことを“テンゴン様”と呼ぶようですが、このテンゴン様にさらわれたという少女の伝説においては、少女は長い年月の末に“おかんばば”と呼ばれる神通力を使う老女となって人々の前に姿を現します。どうやら天狗に連れて行かれた人間は、天狗の仲間になってしまうことが窺われるようです。このように嵐を起こしたり、人間をさらったりする天狗。西洋には“ワイルド・ハント(幽霊狩猟)”と呼ばれる伝承がありますが、それはどこか車山の天狗の伝説と似通ったところを感じるのです。

(幽霊狩猟)


 スコットランド出身の英国作家として知られるウォルター・スコットは、小説家や詩人としての顔だけでなしに、スコットランド国境地方に残る民間伝承の収集家でもあります。そういった記録の収められたものには、「Letter on Demonology and Witchcraft(悪魔学と魔術に関する書簡集)」という書簡形式の本があり、その中に“ワイルド・ハント(幽霊狩猟)”についての記述があります。それは嵐の夜に轟音を立てながら駆けていく魔物たちの群れで、罪深い人間や赤ん坊、そして人間の魂などを獲物として捕らえる恐ろしい存在です。ワイルド・ハントは西洋全般の民間伝承に見られるものですが、マレーシアやインドなどにも似たような伝説があるそうです。ワイルド・ハントを率いている“幽霊猟師”は、古代の神々であったり悪魔であったりと、地方によって様々に異なった存在として語られています。恐ろしい悪魔を先頭にして駆け抜けてゆく魔物たちの群れ。日本には“百鬼夜行”と呼ばれる妖怪たちの行列についての言い伝えがありますが、ワイルド・ハントはまさに“走る百鬼夜行”と云えるのかもしれません。

(ワイルド・ハントの獲物)


 ワイルド・ハントが獲物として狙っているのは、何も我々人間だけではありません。実は精霊たちをも獲物として捕らえるというのです。魔物の群れのワイルド・ハントが、自分たちと似通った存在である精霊たちを狙うことは、どこか不思議な気もします。けれどワイルド・ハントの群れは、死にきれていない下位の精霊たちの集まりだという説もありますから、自分たちの仲間を増やすためにも新たな精霊たちを捕まえる必要があるのでしょうか。それは日本の天狗が人間を捕まえて、自分たちの仲間にすることと同じような感覚なのかもしれません。

 さて、そんなワイルド・ハントにつけ狙われる精霊たちの代表とも云えるのが、今回ご紹介する「苔の乙女」です。このドイツに伝わる妖精は、森の中の苔を守るために一つの共同体を作っており、人間が森の木々を傷つけたりすると怒ると云います。一般的に女の妖精とされている苔の乙女は、全身を灰色の苔が覆っており、その苔で木々の根元に着せる衣を編むそうです。樹木の守護霊でもある苔の乙女は、木々を傷つけない人間に対しては好意的であり、薬草による病気の治癒の手助けをしてくれるそうです。

苔の乙女

「苔の乙女」2018年 木版画 ©Jiro Ota


(妖精の光と影)


 妖精の中でも特に穏やかな性質を持った苔の乙女の天敵が、よりによって最も獰猛なワイルド・ハントの群れであることには何か意味があるのでしょうか。ワイルド・ハントに狙われた苔の乙女たちは、ただひたすら逃げ隠れるだけしか他に術がないようです。それは吹き荒れる嵐の中で、木肌が裂けたり枝が折れたりしながらも、ひたすらに耐え忍ぶ森の木々の光景そのものにも思えます。そんな自然界の現象の裏では、妖精たちの激しい争いが繰り広げられているなどと想像することは、唯物的な現代では難しいことかもしれません。けれど現象世界の裏には、必ず霊的なものが存在することを当然とした昔の人々にとって、きっと嵐はただ雨風が吹き荒れるといった現象だけではなかったことでしょう。車山の嵐が“福次荒れ”と呼ばれ、天狗の仕業とされていたことも、その一つの例かもしれません。

 さて、ワイルド・ハントに追われる苔の乙女のことを思うと何とも辛い気持ちになりますが、実はワイルド・ハントの群れを率いている悪魔自身が、かつては苔の乙女であったという説まであるのです。これには少なからず驚かされますが、ワイルド・ハントも苔の乙女もどちらも集団で行動するという点では似ているようです。そして森を守る苔の乙女も、一度ワイルド・ハントの仲間となれば、様々なものに危害を加える集団となってしまうことを考えると、両者は集団で存在する精霊の光と影の側面を表しているようにも思えるのです。

(木の妻)


 苔の乙女のような妖精は「ウッド・ワイフ(木の妻)」とも呼ばれ、森の木々と密接なつながりを持っています。ですから樹木が傷つけられたり壊されたりすることで、同時に苔の乙女も傷つけられ命を失ってしまうのです。こういった妖精のあり方を考えると、生命というのはいかに相互のつながりによって成り立っているのかを思わされます。本来人間もまた周囲の環境が破壊されてしまえば生きていけないのですから、本質的なところでは苔の乙女と何も変わらないのです。ただ人間は“個”というものが発達してきているので、それほど周囲の環境に影響を受けなくても生きていけるようになりました。その事自体は悪いことではないと思いますが、やがて次第に自分一人でも生きていけるような錯覚が強まり、周囲がどうなっても自分さえ大丈夫ならそれでいいといった感覚も生まれてきたようです。けれど個が発達する段階においては、そういった利己主義も必然の過程なのだと思われます。直接自分の生活に関わってくるのではない限り、そんなにも一つ一つの物事を自分の事として感じ取るのは無理なことですから。

 ただ、あまり周囲と切り離された感覚の度が過ぎると、全体の中で生かされているといった感覚が希薄になるので、生きていても虚しい気分に陥りやすくなるという弊害が生じるようです。我々というのは周囲から影響を受けて、さらに自分から影響を与えるといった相互の成り立ちによらないでは、生きている実感が持てないのでしょう。そして、相互に与える影響が利己主義から離れたものであればあるほど、そこから感謝というものが生まれ、それこそが本来の喜びの源泉なのかもしれないのです。森の木々を守護し、互いに助け合う苔の乙女の姿は、生命本来の喜びのあり方を提示してくれているようにも思えます。あまり利己主義による相互関係ばかりが強まれば、いつしか我々も嵐の夜に駆けずり回って猟をする羽目になるということでしょうか。


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