星の光とサービスエリアの明かり

少しおセンチな話。
そこそこヘビーな話。

2018年の暮れ。

大学時代の、本当に唯一の友人と、3年ぶりに飲んだ。
(誇張ではなく、本当に唯一)
家が近いということで、1時間ほどお邪魔した。
愛着障害を克服したからこそ、こうゆう行動も一応できる。

そこには光が溢れていた。
友人の子供、その奥さん、友人のご両親。
どれも、ナチュラルな体温を持ってコミュニケーションを取っている。
コミュニケーションが断絶しているのでもなく、かといって作り物めいたものもない。
これが、「普通」の家族。

2019年1月2日。

今度は、高校時代の友人と地元で飲んだ。

そこでの話は、いつもと変わらない他愛もないものではあった。
でも、愛着障害を克服した今となっては、全く意味合いが異なる。

僕が28歳と3ヶ月でいまだ童貞なのは、ひとえに愛着障害であり、心を閉ざしているからだ。
その理解が、改めて深まった。



帰り道、星空がとてもきれいなことに気づいた僕は、たまらず、散歩に出かけた。
昨晩の余りのプレミアム・モルツを片手に、今朝積もった薄い雪を踏みしめながら、静かな田舎を白い息とともに歩く。
金属の缶を素手で持っているのは、正直冷たい。
冬の匂い、特に雪が降る地方では、無香の世界のどこかから、灯油の匂いがやってくる。

とにかく星が見たいので、街灯が少ないところ。田んぼの電灯が少ないところへと進んでいく。
歩みを進めるほどに、星の明かりと、流れる雲と、僕の孤独が際立っていく。

愛着障害の克服とは、孤独でなくなることではない。
人の世との暖かな交わりを精神的に断った孤独の世界でも、生きていける状態になること。
これが、愛着障害の克服だ。

僕の足取りは、小さい頃遊んだ、児童公園の小高い丘に行き着いた。
そこが、徒歩で手軽に行けるところとしては、一番街灯が少なかった。

丘の上から真上を見上げると、星がとても綺麗に見えた。
北斗七星やオリオン座だけでなく、名も知らない星たちが夜空に輝いている。

しかし、ふと視線を下ろしていくと、山の斜面に高速道路のサービスエリアの明かりと、まばらな山間の街灯が煌めいていた。

不思議と、「そこに行けば人がいるかもしれない」と感じた。


この、冷たい孤独の世界で、生きていける精神性を得るからこそ、人肌の暖かさが恋しくなる。
人と、交わりたくなる。
僕は、帰路についた。


だがしかし、僕は別のことにも気づいた。
愛着障害の克服とは、精神が再び生まれた状態。
いわば、僕は生後3ヶ月の精神なのだ。

もし、いまの人肌を求めたい状態があとしばらく満たされなければ、僕の心は再び人間世界との精神的な国交を断絶してしまうのかもしれない。
僕はそれでもいけていけるから、それでもいい。

これが、自閉症の本質か、と気づいた。

彼らは生まれて間もない頃、愛着の形成が決定的にうまくいかなかったために、他人との精神的なやり取りを断絶してしまったのではないのか?
そうすれば、あとは生き物として自分の鎖国した世界で生きていけばいい。
たとえ野生の世界では生きていけないとしても、人間の社会性によって彼れは生を全うできる。

では、自閉症の治療・回復とは何を意味するのか?

それは、今僕が自分自身にやろうとしていることと、同じではないのか?

「人との精神的なやり取りを再開して、苦しみながら自分の求める関係性を手に入れる。

僕自身は、それでもいい。
自分でそうしたい、と覚悟を決めつつある段階だから。

でも、自閉症の僕の親類の子はどうなのだろう?
その子を、鎖国の世界から、この苦しい世界に引っ張り出すことは、その子にとって本当に幸せなのか?僕らのエゴなんじゃないか?
帰り道、涙が止まらなくなった。

何がいいことなのか、人として正しいことなのか、わからなくなった。

それでも生きていきたい。

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