回復への道のり〜自分がアダルトチルドレンだったのかよ編〜

そう、そもそも私はアダルトチルドレンなのだ。

私は、福祉系の対人援助職である。かれこれ10年位業界にいる。
仕事で機能不全家族、DV、ヤングケアラーなど様々な事例に遭遇するし、知識も得る。

まさか、自分がアダルトチルドレンの概念に当てはまるとは思ってもみなかった。
気が付いたのは社会復帰して数年経ち、再び自律神経失調症の症状に苦しむ様になってからである。

某当事者会のチラシが目に止まった。
機能不全家族と、そこで育った人が持つといわれる共通の特徴。
どうも、当てはまる気がする。

私は自分がアダルトチルドレンだと知る前、母との関係性で非常に悩む時期があった。
その時に縋ったのは、メールカウンセリングだった。

そこで「毒親」というキーワードが出た。
その言葉も私は知っていた。知っていたのに、自分の親が毒の部分を持っていることを見ないようにしていた。

私の家庭は父、母、弟、妹の5人家族。
物心ついた時から両親は不仲であり、喧嘩が絶えない日々は私が大学生になる辺りまで続いた。

母は何かと私達子どもを叱責した。
それが悪気のない失敗でも、上手くできなければ怒鳴りつけた。
褒められた事など片手で数えられる程度である。
「あんたはどんくさい」
「あんたは要領が悪い」
これが今も私を縛る呪いの一つである。

3歳頃だろうか、おもちゃのピアノを買い与えられた。
母が私にピアノを教えるが、私は上手く弾けない。「何でこんな事もできないの!」母の声がどんどん怒りを帯びていく。
最後は「もういい!!」と言い捨てて、私とピアノを置いてズカズカと立ち去った。

両親は、2人揃っているといつ爆発するか分からない状態が10年以上続いた。
何かと母が父に金切り声で突っ掛かり、父が大声で怒鳴り返す。
父は母や私達に直接手を挙げる事はなかったが、基本はモラハラであった。

大声で威圧する、突然不機嫌になる、キレる、物に当たるが基本スタイルである。
小学生の頃、眼の前で茶碗を叩き割られた時は、流石に警察に駆け込もうかと思うほど恐怖を感じた。
両親の喧嘩が耐えきれずに泣いた事がある。それを父に「何でお前が泣くんだよ」と、鼻で笑われた事も覚えている。

かといって、母に全面的に味方できる状況でもなかった。
我が家の平穏をぶち壊し夫婦喧嘩を吹っ掛けるのは母なのである。
「私等は子どもに喧嘩は隠さないでオープンにする方だから」と開き直る始末であった。
大人になって面前DVという言葉を知った時は、正直超悔しかった。

母は父がいない時に父の鞄を床に叩きつけて「死ね」と叫んでいた。
母は父方の祖父母や親類とも上手くいかず、その悪口を聞かされるのが長女の私であった。

毒親育ちの誰かが自分を「玄関マット」と表現しており、うまいこと言うなぁ、と感心した事がある。
私は母のサンドバッグだった。

悪口だけでなく、父への不満も聞かされる。
結婚するまでこんな人だと思わなかった、などと、当時小学生で更にそんな人間の実子である私に言われても何をどうすれば良いのかというレベルである。

学校の方が、よほど自分の情緒を保つ事が出来る場所だった。安心出来る居場所が逆転していた。
家に帰るのがイヤでも、子どもの私に行く場所はどこにもない。
かといってグレるメンタリティも持ち合わせていなかった私は、結局トボトボといつ爆発するか分からない不穏な家に戻るしかなかった。

とにかく両親の地雷を踏まぬよう、常に顔色をうかがい、時にはおどけて(それも鼻で笑われたが)、私はすっかりご機嫌取りマシーンと化していた。
それが大人になってからも自分を縛り付けるものになっていたとは、本当に自分を呪いたくなる。
無念だが、子どもの私はそうやって生きるしか無かったのだ。

長いので続く

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