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覚悟が価値観を生む?

自分の考えを持つのが大事。
自分の意志を持とう。
自分の価値観を大切に。

そんなことを一度は聞いたことがあるように思うのですが、
「意志を持つってどう言うことなんだ?」
「価値観を大切にって言うけど、価値観はどうやったら身につけられるんだ?」
ということを改めて整理しておこうと思ったのです。
そうして考えていくと、

意識
意志
覚悟
価値観

というような流れが見えてきました。

意識と意志については過去の記事で書いたことがありますが「別の見方をするとこんな風にも見えるなー」という発見ともに、ここでは順番にそれぞれについてまとめてみようと思います。

◯意識
意識とは宇宙空間のような無の空間に漂っている“何か”。周りに何もないので方向感覚もなく無の空間に漂い、その“何か”も自己を認識することは出来ず“何かでしかない”。例えてみると、真っ黒な空間の中で自分の体のようなものがあることはわかるけど、自分の体を見ても周りの空間と同じように真っ黒で、空間と自分自身が溶け合っているような感覚。
内と外の区別はないんだけど特定の空間を“把握”することは出来るような、、、そんな感じ。

『意識のイメージ』
内も外もないけど、暗い空間を“把握”することが出来る


◯意志
意志とは、先ほどの流れで言うと、空間の中に2、3個の光が生まれて、同時にその光を捉える“意識が視点として特定された”状態。意識だけでは自己を自己として理解することは出来なかったけど、光という“外側の対象”が生まれることによって、“対象に対しての自己”というものが認識出来、自己が外を見る“視点”として固定化された状態。そこで大事なのは、視点は対象があって初めて視点たり得るし、対象は視点があるから対象たりえるのであるから、意志とは視点と対象を同時に捉え内包する“場”のようなものであるということ。
意志を持つということは大体の場合、自らの考えの“方向性※”があるというニュアンスも含むように思いますが方向性が決まる“前の状態(場)”であり、選択肢はあるが“未選択の状態”のように考えるのがいいように思うのです。
※ 意志があるということは「こうしたい!」という進むべき方向性があるという意味で。

対象が生まれることによって
対象を観察する自己も生まれる。
しかし、その自己のことを意志と呼ばない
『意志のイメージ』
対象と自己の両方を内包する“場”としての意志

ここで一つ例を考えてみます。
例えば、お昼ご飯何を食べようか悩んでいる時、あるハンバーガー屋を見かけ入ることにした。そこには鯖バーガーなるものがありなんか新作だって言うし、興味本位で食べてみることにした。そこにたまたまアンケートをする人が現れて、“何故”鯖バーガーを食べたんですか?と聞かれた。私は鯖が嫌いではないし、どちらかと言うと好きな方だったから、「鯖が好きだから」と答えた。そしたら「なるほど鯖が好きだから選んだんですね。」と言われた。
昔どこかで聞いた、アンケートの有効性についての話だったように思うのですが、これは意志についての話としても例になるなーと思ったんです。
もしかしたら、アンケートを取るために質問した人は「この人は鯖が好きだから、“意志”をもって鯖バーガーを選んだ」と思ったかもしれない。
でも、選んだ方はぶっちゃけ「鯖バーガーを食べよう!」と思ったわけではなくて、たまたま ハンバーガー屋を選び、たまたま鯖バーガーという存在を知ったから、たまたま選んだだけかもしれない。「今日のお昼ご飯は鯖バーガーが食べたい!」と思って食べにきたわけじゃない。
だから意志というものは、内からの声(自から選ぶという力)だけで決定していると誤解されるが、外からの声(引き寄せる力)によって発生しているものだという認識が大事なんだと思いますし、その“外からの声”がアフォーダンスと呼ばれるものなんだと思うのです。
さて先ほど私は意志とは“未選択状態”だと書いたのですが鯖バーガーの件だとどうなるだろう?様々な食べ物屋や様々なハンバーガーの種類に自分自身が“選ばされている状態”は、言い換えてみると自分が様々な選択肢、つまり“外からの声”に晒されている状態。一方でその中から「自分が何を選択したいと思ったのか?」について考えることが“内からの声”を受け取っている状態。「鯖バーガーを食べよう!」と決定し選択する“以前の状態”は、内と外の両方の声を受け取っている状態のことであり、それを意志を持った状態と呼べばいいのではないか?と思うのです。

これが意志について思うところ。

◯覚悟
では、ここで鯖バーガーを選択したことは一体何なのか?つまり、内と外の声をもとに“決定”したことについてはどう考えればよいのだろう?

“決定”を考える要素として“覚悟”と“無覚悟”を考えてみたい。

まず覚悟をどう考えるか?
覚悟とは、選択し決定すること。それは、何を選び、何を“選ばないか?”を決めることでもある。
鯖バーガーを選択することは鯖バーガー以外を食べないと決定することでもあるので、何を食べ、何を食べないかを決めている。
そして、その覚悟によって“責任”という問題が発生してくると思うのです。選ばなかったものから「何故選ばないのか?」という問いが生まれ、それに対して応えることを要求される。
つまり、覚悟とは“責任”とセットで存在している。

『覚悟のイメージ』
選択し決定すること。
同時に残りの2つを選ばないという決定であり、
選ばなかったものへの“責任”が生まれる。



では先ほどの鯖バーガーで覚悟がある場合と覚悟が無い場合を考えてみると、、、

例)
鯖バーガーを食べた後、美味しくなかったとする。すると「なんで鯖バーガーなんて食べたんだ!?」とまるで叱責するような問いが生まれてしまった。この“責任”にどう応えるか?

・覚悟がある時
鯖バーガーを選ぶ時、覚悟があれば「美味しい美味しくないということではなく、食べてみること自体が重要なのだ!」と言うことが出来るのではないか?
例えば「鯖バーガーというものがあるのかー。珍しいから食べてみよう!」と覚悟する。そこに美味しいか美味しくないか?の評価軸はない。食べるか食べないか?ということが大事で、食べるという“過程(プロセス)”自体が重要になる。例え美味しくなかったとしても「なるほど、こういう味になるのか」という発見があるし、「何故食べたのか?」という問いに応えることが出来る。つまり生じた“責任”に応えることが出来る。

一方で、

・覚悟がない場合
「鯖バーガーかーなんとなく食べてみよー」みたいになんとなく決めて食べてみると、美味しくなくて「なんで食べてしまったんだー!お金が勿体ない!」と後悔する。なんとなく選んだだけなので「何故食べたのか?」について応えられないから、美味しくないという“結果”だけに目がいってしまう。美味しくないので失敗したと後悔する。生じた“責任”に対して応えられず、嘆き悲しむだけで終わってしまう。

つまり、
沢山の選択肢がある中から“決定”する時には、覚悟のあるなしが重要な要素であり、生じた“責任”に対して向き合い方が大きく変わるのではないか?ということなのです。
私は出来たら後悔が少ない方がいいなーと思うので、どうしたらいいか?という質問に対しての答えは簡単「覚悟を持てば良いじゃないか!」ということ。でも覚悟と言うと随分と大きな決断のようにも感じてしまいます。
小さなことでも一つ一つ覚悟を持って選択していくのはなかなか難しそうです。
ですが、先ほどの鯖バーガーでの違いは

覚悟あり→食べるという行為(過程)に注目
覚悟なし→食べたという結果(目的)に注目

という違いでしかないんじゃないか?とも思うのです。

つまり「後悔をなくすために選択する時には覚悟を持て!」という強い言葉ではなく、「選択する時には目的じゃなくて過程に注目して選ぶと後悔は少なくなるよー」ということなんじゃないだろうか?

自分の意志を持とう!自分の考えを持とう!みたいな話は、突き詰めていくと、
「様々な選択肢が生じ意志を持った状態になった時、あなたはどんな行為(過程)を大切にしますか?」
ということなのではないか?と思ったのです。
そして覚悟と責任という一見強く重たく大切な要素も、そんな単純な問いの中に実は含まれている。
そんな感じがしたのです。

そして、
沢山の覚悟(選択)の先に生まれてくるもの。それが“価値観”と呼ばれるもので、その人“らしさ”なんだと思ったのです。

◯価値観
例えば、料理をしてみたいと考えているが、沢山の仕事を抱えているので、料理をする時間がない人がいる。だから食生活では自分で料理をしないと決めた。でも便利だからと言ってコンビニでの食事をするんじゃなくて、できるだけコンビニを避けてゆっくり時間をとって食事をする。

この人は料理をするということを捨てています。

一方で、
むしろ仕事の時間を調整して、なんとか料理をする!という選択をする人もいるでしょう。

食事の時間は外食したり家で食べたりして、ゆっくり時間をとるという選択する人もいれば、コンビニで買ったおにぎりを歩きながら食べて、食事の時間を捨ててその時間を他のものに使う人もいるでしょう。

この話はもしかしたら、「いろんな人がいるよねー」という結論で思ってしまうような問題に回収されてしまうかもしれません、、、
ですがもし、
覚悟の上でこれらの選択が行われているとしたら?それは紛れもなく価値観だと思うのです。もし覚悟がなければ、仕方なく選択している場合がほとんどなので、認めたくない結果が生じたら後悔してしまうことでしょう。

だからこそ、私は覚悟の先にしか価値観は生まれない。そう思うのです。
そして、様々な覚悟の先に“覚悟の集積”として立ち現れてくるアイデンティティこそがその人のその人“らしさ”なんだとと思うのです。

価値観を持つことはとても大切なことだと思います。
ですが価値観が持つ難しさも忘れてはいけません。価値観を否定することは難しい。何故なら選択の先にどんなメリットデメリットがあろうと、それを超えたところで選んでいるもの、それこそが価値観だからです。それ故に価値観同士が対立してしまった時の解決が難しくなってしまう、、、

その解決方法が見つかれば、きっと凄いことなのですが、今のところ私が思うのは、、、

自分が価値観を持つこと。
そして価値観を持っているからこそ、自分が選択しなかった選択肢の存在を想像出来るはずで、自分が何かを選択し何かを選択しなかったように、他の人も何かを選択し選択しなかっただけで、きっとそれぞれにその“選択しなかった責任”に応え続けている。
お互いに“責任に応え続けている”という苦しみを理解することで、それぞれの価値観が持っている、様々な視座を大切に出来るんじゃないか?
そんなことを思います。

でもこれも全ての人が覚悟を持ち、価値観を持っている人間同士に限られてしまう。2人の人物が衝突した時、片方に覚悟がなくてなんとなく判断し、責任に向き合わないような人ならまともな話すら出来ないかもしれない。

だからとても難しい。

でも“私は私であることを大切にしたいので、様々な覚悟の先にある、価値観を身につけたいと思う”。
そして、生じた“責任”というものを受け取れる人でいたい。
責任とは英語でresponsibility。
応える力ということ。

責任に気づけない
または
責任に気づかない
責任に気づかない振りをする
という人じゃなくて、
責任に気づける人になりたい。

覚悟とともに発生する“責任”は内側から“湧いてくる力”のように思います。その湧いてくる力を失ってしまった時、人は機械と変わらない存在になってしまう。そんな気もするので、人が人であるために、湧いてくる力を失わない人でありたいと思うのです。

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