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弱さと共生

超相対性理論というPodcastで“弱さ”について話をされていて、深井さんが「弱さと侘び寂びの侘び“足りない”という感覚とが繋がっているように感じる」という話をされていました。私がこの話を聞いてふと浮かんだ考え、それは“共生”ということでした。
それはどういうことか?そのことについて考えるために少し長くなりますが、例を2つあげてみたいと思います。

真木悠介『自我の起源』の中でこんなことが書かれています。「進化史上最もめざましい成功をおさめた種間関係は、昆虫と顕花植物の「共進化」である。クローバーの芳香に引き寄せられるハナバチはその身体を「操作される」他種の生殖のサイクルの内に組み込まれている。しかしハナバチはそのことによって自身もまた生存と生殖の機会を増大しているのであり〜中略〜ハナバチは誘惑されてあることに歓びを感じ、あるいは歓びの原基形態を経験しているはずである」と。
もう一つ同じ著書の中でこのようなことも書かれています。
「ほほえんでいる幼児に対しては、つい「愛他的」な感情の動いてしまうことを抑制することができない。「赤子の手をねじる」という日本語のことわざは、やろうと思えばできるはずなのに「どういうわけか」人間にはそれができない〜中略〜幼児が何らかの視覚的、聴覚的、n覚的刺激を使って「利己的に」われわれ大人を「操作」しているのだということもできる。けれどもそうであるとして、私たちはそのように「操作されてある」ことに歓びを感じてしまう」と。

これらのことはある種“弱さ”だと思うのです。
昆虫も顕花植物も一つの種では上手く生きられない。つまり“足りない”。

幼児は自ら行動することができない。未熟であり、弱い存在であり、自身では生きられない。生きる力が“足りない”。

足りないし弱い存在であるものが、共進化や愛他的な感覚をもとに、他者を搾取するのではない、相互的に関わり合いながら“共に生きる”という感覚。これらは弱さからくる“共生”だなと感じたのです。
同時に、むしろ弱さがあるから共生があり得るのかもしれないとも感じたのです。
弱さは共生のためにある。
そう考えた時、もう一つの考えが浮かびました。

それは、同じ真木悠介『自我の起源』の中に書かれている、エクスタシー論という話です。エクスタシーというと性的な快楽をイメージしてしまうかもしれませんが、Ecstacyとはギリシャ語を語源として、個の「魂」が、個の身体の“外部にさまよい出る”ということ、らしいのです。この外に出るということをシンプルに考えると、“誰かのために何かをすること”だと思うのです。つまり、誰かに何かをすることで自分もまた一つのエクスタシー(この場合は快楽)を得ることができる。そう考えると、前述の昆虫と植物もお互いのために何かをすることによって自分もまた幸福を得ている。同じように、大人が幼児に向けて何かをしたい!という思いから何かをしてあげることで自分も幸福を得ている。可愛く小さな犬や猫に食べ物を与えて、食べてくれることそのものが私自身の幸福につながるというのも個人的な実感があります。

そう考えると、弱さが存在し、その弱さに対して何かをしてあげることで、共生関係が生まれ、その共生関係によって、自分自身の幸福も最大化されていくと考えると、この弱さというものは、幸福のためにプログラムされた一要素なのかもしれない。

自分の弱さは誰かを幸せにしてあげるために存在し、他者の弱さは自分を幸せにしてくれるために存在している。そんなふうに考えると、今まで考えたことのなかった視界が広がったのです。

弱さと共生について考えることが、幸せについて考えることにもなるとは思いませんでした。


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