【資料】追悼「萬代恒志」安倍季雄(大正4年)

恒志君が死んだ

季雄

恒志君が死んだ、恒志君が死んだ、まるで夢のやうだ。
萬代君が故高濱長江君の紹介状を以って始めて僕の処に来られたのは確か明治四十二年の暮であった。『少年』に恒志君の絵が載り初めたのは翌四十三年の一月号からで、それ以来恒さんの絵は『少年』になくてはならぬ呼物となった。

恒志君は『少年』で仕立てた唯一の画家で、萬代君を画家として世間に紹介したのも我『少年』であった。「安倍さん私が死ぬ迄『少年』に描かして下さいな」と萬代君は口癖のやうに言った。その通り、血を喀いて病床に呻吟する様になっても萬代君は『少年』と『少女』には終に筆を絶たなかった。

女のやうに優さしい、柔かい、美しい感情を持った人で、その人、その筆にはどこかしら天才の閃きがあった。交際へばつきあふ程たまらなく可愛いい人であった。小成に安んじさせてはならぬと思ふ処から、僕は事毎に鞭撻もし、苦言もした。それでも恒志君は僕を兄かなんぞの様に思って、安倍さん安倍さんと慕ひ且つ親しまれた。ああそれも皆、二度見ぬ夢となったのだ。

思へば去年の秋、君が静養の為名古屋へ帰るといふ前日、小石川富坂の下宿屋の二階で会ったのが君との最後の会見であった。今年の春久留島君と名古屋に行った時、態々熱田まで尋ねて行きながら、番地が不明であった為め空しく引返したのは今考へても残念だ。此次には是非にと互に約束したのも今は徒らに悲しき思出の一つとなった。

享年二十三歳、花も蕾ながらに散ったのだ。恒志君、恒志君、恒志君――神が君を此の世から奪った悲しき日として、大正三年の三月一日は僕の胸から永遠に忘れ去ることがないであらう。
(恒志君の自画像を前にして三月七日泣記)

『少年』127号(大正3年4月号)


【編注】『少年』127号(大正3年4月号:ポンチ号・時事新報社刊)p181。萬代恒志(ばんだい・つねし)は岡山県出身、1891年(明治24年)生まれ。同郷で7歳上の竹久夢二に私淑した弟子の一人。明治41年6月ごろから『ホトトギス』『笑』に挿絵を描き始め、その後『少年』『少女』のほか『婦人くらぶ』『女子文壇』などで描いた。『少年』『少女』の約4年間にわたる誌面には、署名がない穴埋め的な挿絵が数多く確認されている。大正元年10月、フュウザン会の第1回展に出品した《女の群》は、フランス大使が買い上げた、という。岡山県立美術館が《月島の舟》(24×33)を所蔵している。6歳下の弟、比佐志も画家。
安倍季雄は『少年』編集主幹。

左は『少女十二ヶ画帳』、右は《リボンの花》『少年』96号(明治44年9月)

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