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ブルノ滞在記16 ホームシックと、独・チェコ翻訳家パヴェル・アイスネルについて

今朝は3時過ぎに目が覚めた。しばらくベッドの上で転々としていたが、どうにも再入眠できそうにない。今日は夕方にお芝居を見に行くまでは家で作業をするつもりだったので、どこかのタイミングで昼寝をすることにして、起床。朝食を取る。

今日は夫の実家家族が揃ってワクチンを接種するらしく、彼は帰省して家事を全て引き受けているらしい。時間を取れないから電話はキャンセル。渡航から2週間がすぎて、ホームシックを感じないわけではない。特に夕方以降はなんとなく心許ない。とはいえ、ホームシックを感じられるというのは贅沢なことだ。わたしは子どもの頃からホームシックを経験したことがなかった。両親との関係が良好ではなかったからだ。特に母は、成人してからもわたしを縛り付けてコントロールしようとしていた。物理的にも、精神的にも、金銭的にも。20代前半の頃にプラハに長期留学した動機の根っこには、親から離れたいという願望があった。

とはいえ、留学しても親との関係は大して変わらなかった。帰国後、実家での生活があまりに辛くて、留学生寮の住み込みアシスタントの仕事を見つけて家を出た。その後も再びプラハに長期留学をしたり、シェアアパートで生活したりという生活を繰り返してなんとか両親と距離を保ってきたが、ある時ふと、「もし今自分が生命の危機に瀕したとして、その意思決定を自分でできない状況にあったとすると、わたしは自分の生命の決定権を両親に委ねなければならないのか……」ということに気づいた。29歳の秋だった。家庭教師のバイトの帰り道、自転車を漕ぎながら、わたしは「命の手綱を預けられる人が必要だ」とひとりごちた。こうして探し当てたのが今の夫である。わたしにとって夫は、恋人といった甘やかな存在というよりは、自力で探し出した第2の家族だと言った方が正しい。夫にとってのわたしはまた違うかもしれないが……。すまない。

さて、今日はベッドやソファに寝転んで『文化間の翻訳者 プラハの出版家 パウル・アイスナー/パヴェル・アイスネル Übersetzer zwischen den Kulturen Der Prager Publizist Paul/Pavel Eisner』という論文集を読んでいた。

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最初のプラハ留学時代の後半は、ほぼこの本を読みながら、アイスネルに関する論文を書いていた。彼は日本では、主にフランツ・カフカに関する論考『カフカとプラハ』の著者として、ドイツ語名のパウル・アイスナーの名で知られている。彼がこの論考の中で説いた、「19世期末から20世紀頭にかけてのプラハのユダヤ系ドイツ人は、宗教的・民族的・社会的に疎外されて生きていたのであり、こうしたプラハの現実を考慮することなくカフカ文学を読み解くことは不可能だ」という主張は、「三重のゲットー」というキーワードとして後のカフカ研究を大きく方向付けた。

さて、少し小難しい話になってしまったが、このアイスネルという人物は、非常に多才な人物であると同時に、同時代の中欧を生きたユダヤ系住民の大多数がそうであるように、波乱万丈な人生を送った人物でもある。そもそも彼は、チェコではカフカ研究者としてではなく言語学者、翻訳家として知られている。

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1889年に、ドイツ語を話すプラハのユダヤ系チェコ人家庭(ナショナルアイデンティティはチェコ人で、チェコ語も話すことができるが、家庭ではドイツ語を話す家族。当時のボヘミアのユダヤ系住民の中にはそうした家庭はザラにあった)に生まれた彼は、チェコ語とドイツ語のバイリンガルとして生まれ育ち、生涯ドイツ語文学をチェコ語に、チェコ語文学をドイツ語に翻訳しつづけた。特に、チェコを代表する詩人カレル・ヒネク・マーハ Karel Hynek Mácha 、ヴルフリツキー Vrchlický 、ソヴァ Sova 、ブジェジナ Březina のドイツ語訳や、ゲーテ、シラー、カフカのチェコ語訳を手掛けている。

ユダヤ系だった彼は、第二次世界大戦中は、知人の援助を借りてペンネームで執筆活動をしながら、なんとか強制収容所行きを免れた。戦後、1948年に『フランツ・カフカとプラハ Franz Kafka a Praha』をチェコの文芸誌に掲載するも、その直後にチェコスロヴァキアに共産党政権が樹立。カフカはブルジョア文学として発禁処分となってしまう。もちろん彼が書いた『フランツ・カフカとプラハ』も、チェコではアクセスが困難になった。そのためアイスネルは、アメリカに亡命した友人を頼って、この論考の英語訳をニューヨークで出版。上に挙げた『カフカとプラハ』は、この英語版からの重訳である。

冷戦下のチェコスロヴァキアでは主にトーマス・マンのチェコ語訳に取り組み、1958年にプラハで逝去した。また、チェコ語に関する大部のエッセイ集も戦後に何冊も出版されている。いずれのエッセイ集も文体こそ難しいが、チェコ語への深い愛着が感じられて非常に読み心地がいい。

さて、アイスネルはチェコ語とドイツ語を自由に操り(それどころか10以上の言語ができたという話すらある)、数え切れないほどの著作を残した「大物」なのだが、論集『文化間の翻訳者』を読んでみると、若い頃のアイスネルは貧困ギリギリで余裕がなく、成功を収めた同世代の作家にコンプレックスを抱いてもいる。30代の頃、ドイツの作家パンヴィッツ Pannwitz に宛てた手紙にはなんとも辛そうな記述が散見される。

「わたしは精神的に犬みたいに惨めな状況です。選択肢はますますはっきりしてきます。物質的な心配をしつづけるか、それとも、いくらか自分に合った精神的な仕事を諦めるか。それだけでも辛いことです、自分が進むはずだった道がますます目に明らかになってくるのですから」(1922年5月の手紙/アイスネル33歳の頃)」

うわー、わかる。物質的な心配に駆られて日銭を稼ぐ仕事に必死になった末に、自分は本当はあの仕事がしたかったのに……という思いが頭から離れなくなってしまうあの感じ。彼には養わなければならない妻も子どももいたから、そのストレスは相当のものだっただろう。

また、同時期には同じくパンヴィッツに宛てて、次のような手紙も書いている。

「チェコ人はドイツ精神を嫌って完全にそこから離れてしまいました。慎重に、終わりなく注意を払いながら、ドイツの精神世界が持つ永遠で真に価値ある現象をチェコ人に信じてもらえるようにすることは、偉大で高貴な仕事です。チェコ人たちはこうした作家を読まずに、ヴェルフェルのように嘘八百の魂の詐欺師を読んでいるのです」(1921年10月の手紙/アイスネル32歳の頃)

ここで彼が「ドイツ精神」を一面的に称賛している点には注意を払う必要がある。現代のわたしたちの目から見ると、「ドイツ右翼?」と思うかもしれないが、これが書かれたのは1921年。ちょうど第一次世界大戦が終わってチェコスロヴァキアが独立して間もない頃だ。長年のドイツ民族の支配から解放されたチェコ人がドイツ文学から離れてしまうのは当然のことだろう。しかしチェコ語とドイツ語両方を母語として育った彼にとっては、身体が二つに引き裂かれるような、あるいは身体の半分が失われてしまうような思いだったに違いない。彼と同じように、ハプスブルク帝国の終焉をメランコリックに見ていたプラハのドイツ人は決して少なくはなかっただろう。それは、自分たちが支配的地位にはいられなくなったことに対する不満とは少し種類の違うものだと思う。とはいえ彼は、ユダヤ系でありながら結婚を機にキリスト教に改宗しており、時期によっては親ドイツ・反ユダヤ主義的な物言いをすることもあった。自分のユダヤ性に対して抑えがたい憎しみを持ってもいたのだ。この点についてはややこしいのでまた別な機会に書こうと思う。

さて、上の引用で言及されているヴェルフェルとは、フランツ・ヴェルフェル Franz Werfel というプラハに生まれたユダヤ系ドイツ語作家だ。

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アイスネルより1歳年下の彼は、1911年『世界の友よ Weltfreund』という詩集で一躍有名になり、以後多くの詩集や小説を残した。アイスネルと違ってプラハ有数の富豪の息子として生まれ、音楽の才能もあり、1929年には同時代の芸術家たちの間でミューズともファム・ファタルとも呼ばれた女性アルマ・マーラー Alma Mahler と結婚している。金、家柄、愛、実力、名声、全てが揃っているように見えるヴェルフェルに嫉妬するアイスネルの気持ちは、わたしにも結構分かる気がする。生活がかつかつで、自分が本当に価値があると思っている仕事ができなくて、他人の成功を素直に喜べない状態だったんだね……。分かるよ、それは仕方ない!(ちなみにヴェルフェルに対しては、カフカも少し焼きもちを焼いていたという話を聞いたことがある)

そんなアイスネルも、1930年に出版されたプラハのドイツ語作家に関する論考『恋人たち Milenky』では、ヴェルフェルのほとんどの作品に目を通して、それらを高く評価している。40代になって、彼も少し丸くなったんだろうか。わたしも40歳になる頃にはアイスネルのように丸くなれていたら良いのだけれど。

20代の頃に読んだ時よりも、アイスネルという大物が少し身近な存在に感じられるようになった。作家や作品との関係は、こんなふうに接する時期によって絶えず変わっていく。やっぱり文学は面白い。

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