見出し画像

05

 雑踏に嫌気がさして少しだけ厭世的な気分になったら、ここに来る。決めていたわけじゃないけれどいつの間にか、ある種のルーティンやおまじないのように、僕は「05」と書かれた小汚いビルの屋上に足を運ぶようになっていた。5という数字は好きだ。ぴかぴかのビルじゃない辺りもまた、僕にとっては都合が良く思えた。美人が苦手なのと一緒で、綺麗すぎるビルなんてものもあまり得意じゃない。パーカーやスニーカーが似合うくらいの場所がいい。革靴やスーツや高級な腕時計なんて、僕にはきっと似合わない。
 かん、かん、と無駄にエコーのかかる薄い階段を踏んでいく。ビルの中は静かだ。誰もいないのか、本当は誰かがいるのか、僕は知らない。ハイネックのパーカーに口元を埋めて、すんっと鼻を啜る。最近は夕方になると肌寒いくらいだ。持ち上げる太腿の脇には空が見える。もしも高所恐怖症だったら結構びびる感じの階段だけれど、僕にとってはそれもまた心地いい。空中散歩なんて洒落た響きを好むつもりはないけれど、なんだか妙な浮遊感があって中途半端に心臓が浮く。そんな感覚は割と好きだった。上を見るんじゃなくて、わざと足元を見て階段を上る。つま先じゃなくて膝辺りを見て歩くのがポイント。ポケットに入れている手は知らない間に汗ばんでくる。それに気づく瞬間の情けない感じもまた好きだった。僕はちっぽけで情けない奴だなぁと、そう気づける瞬間。
「屋上には行けないよ」
 不意に声がして、心臓が引き攣った。動揺を隠しきれていないことに気づきながらも平然を装って、結果的に余計にギクシャクした視線で声の方を見る。上だ、と思ったのに、上には誰も居ない。
「鍵が閉まってる。ここ、もうすぐ取り壊されちゃうんだって。不良のたまり場になると困るし、事故が起こったら怖いからって」
 下か?と思って振り返る。ポケットに入れていた手は思わず手すりを掴んでいた。
「君、よくここに来てるよね。不良?」
 そう問いかける彼女の方がよっぽど、「不良」には近い容姿をしているように見えた。僕は一瞬視線を惑わせて、「別に」とぼそぼそ返す。彼女が鼻で笑うのが分かった。かん、かん、と階段を上ってくる。
「ここ、あたしのパパのビルなの。不法侵入で訴えるよ?」
「……入ってほしくないなら鍵しときなよ。……誰の持ち物かなんて、分かんないんだから」
 このビルで誰かに会うのは初めてで、だからこそ本当は今すぐにでもこの場を去りたい気分だった。目の前の不良少女のことなんてどうでもいい。僕はこの鬱屈した気分をどうにかして落ち着けないといけなかった。明日からの健全な社会生活のためにも。
「君、いっつも屋上で何やってたの?」
「……別に何もしてない」
「何それ、そんなの信じられると思う?」
「……別に信じなくてもいいよ」
「はぁ? 別に別にって何なの君、いじけてんの?」
「そういうことじゃなくて」
「死のうとした?」
「……は?」
「あそこから飛び降りて、死んじゃいたいと思ってたんでしょ」
 いつの間にか彼女は目の前に居て、人工的に大きく見せている瞳でにこりと笑った。近くで見ると、意外と不良っぽさは控えめなのかもしれない。
「いや、別に……」
 そこまで落ちてる訳じゃないと否定をすれば、彼女はまたふふふと笑う。化粧や服装で分からなかったけれど、年齢はもしかすると僕よりも若いのかもしれない。笑顔に、まだ幼さのようなものが見えた。
「本当はね、このビルが使えなくなるのって、屋上から飛び降りる人がいるからなの。結構高いしね、周りにもあまり注目されずに済むじゃない」
「ふぅん。ここでの飛び降りなんて、聞いたことないけどな」
「そ? 友達少ないからじゃない?」
「あぁ」
 もう相手をするのも面倒で適当に相槌を打つ。彼女が下にいるせいで、階段を下ることができやしない。特に反論もしなかった僕に、彼女もまた特に気にする素振りもなくまた口を開いた。
「帰るの? もうここには来ない?」
「あぁ。入れないんじゃ仕方ないし」
「ふぅん。ねぇ、05って、鍵穴に見えるよね」
「は?」
「見えない? あたしには、鍵穴に見えちゃう。このビルの05は、多分扉の鍵なのよ」
 何かヤバいものでもやってるのかなと彼女を盗み見るけれど、表情や目がそこまで狂っているようには見えない。単純に夢見がちな馬鹿なのかもしれないなと、「なるほどね」と適当に相槌を打った。
「じゃあ、僕帰るから。勝手に入ってすみませんでした」
 ひょこ、と会釈をして、足を踏み出せば彼女は呆気なく道をあけてくれた。すれ違い様に下した視線に、真新しい赤い靴が飛び込んでくる。かん、かん、と階段を下りる。せっかく見つけたお気に入りの場所を奪われた喪失感はあったけれど、まずは家に帰ろうと思った。すべてはそれからだ。帰りにコンビニで美味いもんでも買って帰ろう。
 パーカーのポケットに突っ込んだ手が汗ばんでいる。ポケットから引き抜いてごしごしとズボンで拭った。

 翌日もまた、あの「05」のビルの下を通った。立ち入り禁止の看板が増える訳でもなく、鍵が閉まっているような気配もないいつも通りの姿のままだ。昨日の女はそもそもただの不良娘で、むしろ彼女こそが屋上に溜まる不良たちの一部だったんじゃないか。僕はなんとなくからかわれただけなのかもしれないといった気さえして、けれどまた妙な奴に絡まれるのも嫌だなと、自然とそのビルの階段を踏むことはしなくなっていた。多くも少なくもない友人に適当に探りを入れるより先にネットで調べてみたけれど、やっぱりあのビルでの自殺なんてニュースは出てこない。適当なこと言うなよなと、「05」の文字を見るたびに思うようになった。鍵穴に見える。そういった彼女の表情も、数日経てばすぐに忘れてしまったけれど。
 上手く気分転換ができなくなって寝つきが悪く、朝寝坊をする回数が前より増えた。ギリギリの電車に滑り込もうとダッシュで改札を抜けて、行列のできる駅のホームにたどり着く。暑さは遠のいた季節だっていうのに、さすがに走ればじわりと汗をかいた。電車がホームに滑り込む。間に合った、と時計を見れば、丁度05分を指していた。
 どっと、ホームの一部でどよめきが起こる。
 けたたましい音がホームに響く。
 何だろうと顔を向けると同時に、いくつかの叫び声にも近い声が聞こえた。
「救急車! 誰か駅員呼んで!」
「飛び込んだ、女の子が飛び込んだぞ」
 人身事故の現場に出くわすのは初めてだった。軽いパニック状態のホームを眺めながら、少し離れた場所からその様子を見た。
「……あ」
 駅のホームには、真っ赤な靴。
 人波の合間に覗く金髪は、弾けた赤に濡れていた。
「……鍵、使ってねーじゃん」
 すぐに駅員や救急隊員が乗り込んでくるホームを見つめて、別に悲しい訳でも何でもなく、ただ電車が遅れるなとそれだけを考えた。05だった時刻の表示は、いつの間にか5を置き去りにして走り去る。
 パーカーのポケットに突っ込んだ掌は、さらりと乾いたままだった。


———
居場所を奪われずに済んだのは誰か。

読んでいただいてありがとうございます。少しでも何かを感じていただけたら嬉しいです。 サポートしていただけたら、言葉を書く力になります。 言葉の力を正しく恐れ、正しく信じて生きていけますように。