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逃げ道として何かを盲信すること

傍から見るとすごく怪しげなものに、なぜかどっぷりハマってしまう人、あなたの身近にいませんか?(怪しげな新興宗教にのめり込むとか、そういう話です。)
「なんであんなの信じるわけ?」と見下すことは簡単ですが、きっとそうなってしまうのには、それぞれの事情があるんだろうと思います。

何人かのそういう人たちを見て、私が感じる共通点は「理不尽な目に遭い過ぎていること」です。
例えば、身勝手な人から長年振り回されて苦しめられてきたとか、心を削り取られるような経験をしてきた人。
つらい日々の中で、
「どうして私ばっかり、こんな目にばかり遭うの?」
「自分の何がいけないの?」
と自問自答したり、時には、「解決する方向にむかってるかも」という淡い期待を裏切られたり……。
そんなことが続いている時に、
「この教えさえ信じれば、もう大丈夫。必ず幸せになれますよ」
と誰かに囁かれたら、気持ちがぐらつかない人の方が少ないんじゃないでしょうか。

周りから見れば、「何かを盲信している人」は、自分を失くして、自由を奪われているように思えるけれど、当人にとっては、それが「苦痛からの解放」に感じられるんじゃないかと思います。
これからはもう、進む道を自分で考えなくてもいい。
「間違った選択をしたんじゃないか?」と自分を責めることもしなくていい。
それが本質的な解決になるとは私には思えませんが、「一時的に利く痛み止め」の役割は果たしてくれるのかもしれません。

私自身は、”怪しげな宗教”の類にハマったことはありませんが、すごく落ち込むと、普段なら絶対読まない「女性向けゆるふわ自己啓発本」を買うという癖があります。
(なので、この種の本を買うことを、「今、結構追いつめられてるな自分」と自己判断するバロメーターにしています。)

「大丈夫! あなたはそのままで素晴らしい存在なのだから、ポジティブに生きましょう! ポジティブなマインドでいることは、ポジティブな出来事を引き寄せます!」

とか言ってもらうと、とりあえず心が安らぐ(ような気がする)のは事実なんですよね。
そう考えれば私だって、この先とんでもない苦しみに出くわしたら、怪しげな教祖さまの教えを鵜呑みして「楽になりたい」と思うことがあるかもしれません。

だから、何かを強く信じそうになった時は、それが「逃げ道としての盲信」じゃないかをセルフチェックできる自分でいたいと思います。
……と言っても、ひどく傷ついている時に、そんな心の余裕はないかもしれない。
それならせめて、自分の身近な人が「逃げ道としての盲信」に陥りそうになったときには、気持ちをきちんと聞いてあげることぐらいはしたいなと思います。

#日記 #エッセイ #コラム  
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