視線を向ける先
SNSを断つと、時間と心に余白が生まれて、もどかしい思いと豊かな思いが半々である。
もどかしいのは、すぐに伝えたいことがたくさん浮かんでくるのに、発せない。癖として、思考回路がすぐに答えを出すようにできており、考えたことは瞬発的に世に出したくなる。これも現代病か。
豊かな思いとは、時間的な余裕と共に、不便さを味わう心が生まれる点にある。
まず気になったのは、自分の視線をどこに向けるかという問題だ。この視線とは物理的な視力ではなく、心の向く方向のことだ。
仕事をしているとき、メールを送る先の相手。送ってきてくれた相手。そして、自分がつくるものを読む相手へと思いを馳せる。
アプリの通知はほとんど切っているが、まだまだSNSが気になりのぞいてしまうとき、遠く焦点の合わない場所を不安気に見つめて何かを探す自分の心がある。
皿を洗うとき、あたたかい水が手に触れて乾燥していく瞬間の流れと、汚れをぬぐうスポンジの音に向かう感覚。
ヨガをするとき、自分の内側に懸命に目を凝らす。これはまるで修行のように、研ぎ澄まさなければ集中がとぎれてしまう。全集中ヨガの呼吸である。
内臓がぎゅるぎゅると動き、肋骨の間から肺がふくらむのを感じる。首の筋の痛み、眉間の鈍痛、全ての不快さ、手のひらからにじみ出る毒素を感じて、自分の体に無理をさせていたことを申し訳なく思う。
イヤフォンで音を聴くとき、その音の発せられる摩擦を思う。声が喉を震わす、楽器がこすれる、スピーカーの揺れ。ああ綺麗だなあと思う。
そんなこんなで、思ったよりたくさんの視線を意識することができた。
これを時間軸にも応用すると、遠い過去へ、遠い未来へ、そして今度会ったら話したい誰かへと視線を向けることができた。
ちょっと先の未来を楽しみに噛みしめる感覚がある。それは希望だと思った。楽しいことを伝えたい、話したい。
SNSを断つことで瞬発的に伝えられない思いは、心の中でうずうず動き回って、自分の中にいる間にもそれは変化を止めぬままだ。それを閉じ込めている私がいる。
メールもTwitterもインターネットもなかった時代
つまり手紙で感情を伝えていた時代、もしくは手紙も出せなかった人達は、こんど会ったら・・・ということを考えていたに違いない。そんなあったかいものを、抱えながら生活するのは、なるほど豊かかもしれない。
コロナ禍の妙を楽しむ心を持ちたい。
エチカ
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